授業参観


息子の授業参観に行く。
「どうとく」の授業で、人権学習だと聞いていたので、行く前から何となく嫌な予感はしていた。


生徒ひとりひとりが、机の上に、B4サイズの画用紙を置いている。
左半分には、自画像と、簡単な自己紹介が既に書き込まれている。
右半分には、花びらのない花が印刷されている。
そして、全員に、黄色い付箋紙が5枚ずつ配られる。


配られた付箋紙には、周りの友だちの「いいところ(長所)」を考えて記入し、記名した上で、その友だちに渡す。
付箋紙は5枚あるから、周りの子5人について「いいところ」を書き、それぞれに渡すことになる。
また、周りからは、自分の「いいところ」を書いてもらった付箋紙を受け取ることになる。
受け取った付箋紙は、画用紙右半分の、花びらのない花のまわりに貼り付けていく。
貼った付箋紙が花びらとなり、画用紙には、友だちに書いてもらった自分の「いいところ」で出来た花が完成する、というわけ。


うーん、嫌な授業だ。


教室の後ろに立ち、近くにいる子ども達が交換し合う付箋紙をのぞいてみる。
「ドッヂボールがつよい」「じがじょうず」「友だちにやさしい」「ろうどくがうまい」等々、うんうん、なるほど。
付箋紙は、自分の周りに座っている子にあげるよう指示されているので、それぞれの生徒が受け取る付箋紙の数にはそれほどばらつきはないようになってはいるけれども、それでも特徴のある子のところには、すぐにたくさん集まる。
すぐ前にいた子はドッヂボールの名手らしく、そのことを讃えた付箋紙があっという間にたくさん集まった。


ふと我が子の方を見やると、うーむ、案の定、まだ3枚しか集まっていない。
そうこうしているうちに、先生が保護者に向かって、「どうぞご自由に移動してご覧になってください」と言うので、みんなが我が子の近くへ移動して、集まった付箋紙をのぞき始めた。


見たくないような気もしたけれども、一応何が書かれているのか確認しに行く。


1枚目。「足がいたいけど、元気にあそんでいる」
……んー、ほんとは足がいたいから安静にしてなきゃいかんのだけどね。うん。
まあ、ケガにもめげず元気にしてるってことだろう。
前向きに、前向きに。


2枚目「たまにべんきょうをがんばっている」
……んーと、たまに、ね。
あ、そう。
つまり、がんばっていない、もしくは、だらだらしてるのが常態ってことね……。
無理矢理見つけてくれたんだね、いいところを……。


3枚目「さんすうとか、がんばれ」
…………ほめてないよな、これ……。
激励、だな。
最近、小2にして早くも、算数がわからなくなってきたって、本人も言ってたけど、客観的にもやっぱり事実だったんだね……。


確かに、我が子ながら、「いいところ」、見つけにくいとは思うが、それが事実として証明されてしまったような気がして、ちょっととほほな気分になりました。
もしかして、親には気がつかない息子の「いいところ」があるのでは? 意外と子ども達の間では評価されていたりするのでは? などと、かすかにでも期待してしまった私が間違っていました。
ま、本人は至って脳天気で、まるで気にしてない様子だからいいんだけど。
て言うか、ちょっとは気にしろよな……。

ぜんまいざむらい

ぜんまいざむらい~ぜんまいざむらい誕生~ [DVD]


下の娘がまだ4歳になったばかりだから、まだまだうちのテレビはNHK教育がつけっぱなしになっていることが多い。
近頃のNHK教育の子ども番組は、基本的にみなよくできていると思う。
おじゃる丸ピタゴラスイッチも相変わらず好きだし、みんなのうたも気になるけれども、最近はなんと言っても「ぜんまいざむらい」だ。
(知らない人はこちら → http://www.zenmaizamurai.com/
よいことをするとぜんまいが巻かれるぜんまいざむらい


近頃は、ぜんまいざむらいが始まると、娘が呼びに来るようになった。
ただ、娘は、もう4歳になるのにいまだに滑舌が悪く、「ぜんまいざむらい」がちゃんと言えずに、「ぜんまいまずらい」になってしまう。
今日は「たまねぎ」を「たまげに」と言っていた。


これには法則性があって、ローマ字で表記してみるとわかりやすい。
ZEN-MAI ZAMURAI → ZEN-MAI MAZURAI(ZとMが転倒)
TAMANEGI → TAMAGENI(NとGが転倒)
つまり、母音は合ってるんだけども、子音がひっくり返ってしまうらしい。


娘は、「いいこと考えた!」のつもりで、「いんとこかんわえた!」と言う。
「いい」が「いん」に、「かんがえた」が「かんわえた」になるのは、いずれも一種の音便であると見なす。
「こと(KOTO)」が「とこ(TOKO)」になるのは、やはり子音の逆転だ。


いずれもかわいいので、あえて矯正しない。
直ってしまうとおもしろくないので、娘の前では「ぜんまいまずらい」と言うように努めています。

Quiet Life / JAPAN も聴き直す


これも確実に20年は聴いてなかったと思う。
けど、正直これはちょっと期待はずれ。
曲は確かにいいんだけど、リズムが平坦で軽い。
もっとずっとデカダン耽美派な感じの印象だったんだけど、全然ポップだな、今聴くと。


やっぱり元祖ビジュアル系だ、これ。
近年の日本のビジュアル系バンドの美意識の原型の一部が、ここには確実にある。


この次の『Gentlemen Take Polaroids』からラストアルバムの『Tin Drum』、その後のソロへと、どんどん内省的な方向へ進んでいったように、もともとデビッド・シルビアンはライブが嫌いな引きこもりキャラだ。
でも、この当時の JAPAN は、日本においては絶大なアイドル人気を誇った。
ライナーに引用されている、サウンズ誌の80年のレビューがおもしろい。
ステージに向かって手を伸ばし絶叫する1万人の女の子に囲まれながら武道館で JAPAN を観るという不思議な体験を書いている。
こんな偏執的で暗いバンドが、ベイ・シティ・ローラーズみたいにキャーキャー騒がれてるのは、当然日本だけの現象だったわけで、そりゃびっくりするわな。
A thinking man's band that brings out the screamers? だって。
Japan the band, like Japan the country, is full of contradiction. とも。


今回のこの再発には、ボーナストラックの他、「Quiet Life」のビデオも収録されているんだけれども、うちのプレーヤーではうまく再生できない。
輸入盤だから? リージョンコードってやつ?
くそー、絶対おもしろいと思うんだけどなー、ビデオ。

初完封


PTAのソフトボール大会。
9月に地区予選を勝ち抜いてしまったので、今日はその上位の大会になる。
やはり今回も人数が足りないというので呼ばれました。


周りの人たちの話を聞いていてだんだんわかってきたのだけれども、どうやらうちの近辺には早朝ソフトボールのチームがあるらしくて、うちの地区チームは、基本的にはその早朝チームメンバーで、なおかつPTAの一員でもあるという人々によって構成されている。
どおりでみんなスパイクとかウエアとか、本格的なわけだ。
そういうわけなので、ぼくは基本的にお客さん的な立場にある。
出で立ちも、ジャージにスニーカーです。


にもかかわらず、行ってみると、ピッチャーをやれと言われる。
これは、別に実力を買われているわけではなくて、大会のレベルが、ピッチャーに能力を求めるほどのレベルではないからだ。
重要なのは主として三遊間や外野の守備であって、速球で打者を翻弄するようなちゃんとしたピッチャーはどこのチームにも存在しない。
ピッチャーは単にボールを投げて打たせるだけの役割のようになっている。
そのように、早朝チームのメンバーで構成されている割には、大してレベルが高くなく、牧歌的なソフトボールであるところが非常によい。
みんな打ち上げを楽しみにしてやってるのだ。
勝たねばならぬというようなプレッシャーは、ほぼない。
そういう場なので、声をかけられればなるべく出て行くようにしている。


今日は正に雲ひとつなく、清々しい風の吹く秋晴れで、快適なソフトボール日和。
昨日のUSJでどろどろになっているかと思ったけど、グラウンドに立ってみると、気分がよくなった。


試合前、チームメイトのおじさん相手に投球練習をしていたら、何となく投げ方を思い出してきた。
9月の予選大会でも1試合ピッチャーをやったんだけれども、その時は正に、打ってもらうためにボールを投げるだけの、バッティングマシンのように投げていた。
それが今日は、昔(も昔、小学校の時だ)、速球派を自認していた頃の投げ方が何となく思い出されてきて、練習しているうちに、どんどん速い球が投げられるようになってきた。
キャッチャーのおじさんも、「手元で伸びる!」と喜んでくれている。
おお、なんか気分いいぞ。


そういうわけで、今日は戦闘的ピッチャーに転身。
制球に苦しんだものの、チェンジアップによる緩急と荒れ球が幸いしたこともあり、終わってみれば15−0の完封勝利。
乱打戦に終始するおっさんソフト大会では稀有なスコア。
おそらく人生初の完封勝利だ!
いやあ、気持ちよかった。
参加してよかった。


ただ、最終回、ピッチャーゴロでゲッツーを取ったときに、右手親指を突き指。
指の根元が約1.3倍に腫れ上がった。
すぐに冷やして湿布をしておいたので、夜には腫れはひいたけれども、まだ紫色になっていて、曲げると痛い。
やっぱり調子に乗っていてはいかん。
おっさんソフトにケガはつきもの。
自分のイメージ以上に体はずっとどんくさくなっているということを、よく心得ねばなるまい。

USJへ行く


今日は家族でUSJへ。
職場がらみの格安ツアーで、早朝発・深夜帰着の日帰りバス旅行。
こういうのはあんまり好きじゃないんだけども、アシ代込みで通常の入場料より安いし、この夏どこへも連れて行ってないしで、応募したら抽選に当たってしまった。
ぼくは初めて、ぼく以外の家族は2回目のUSJ。
息子は楽しみのあまり、深夜1時と4時に目を覚まし、まだ朝は来ないのかと愚妻を起こしたらしい。


通常のフリーパス以外に、更に金を積むと、主要なアトラクションに待たずに入れるという、まさに格差社会の象徴のような、実に気にくわないチケットが場内に売られていて、実に気にくわないのだけども待つのも嫌なので、少し購入。
飲食物のぼったくり的高値にも閉口した。
ただ、ジェットコースターみたいなのがないから、その点は評価しよう。
大阪の風土の影響か、どのアトラクションにもそれぞれ少しずつお笑いの要素が加味されている感じで、それもTDRとかに比べると安心感がある。


息子が昨日学校で足をくじいて靱帯を痛め、足首を固定されているので、まともに歩けない。
入り口すぐのところで車イスのレンタルがあったので、借りてみた。
すると、どこのアトラクションへ行ってもVIP待遇のようになり、まさにこれぞ文字通りケガの功名。
クルーはよく教育されており、列に並ぼうとすると、頼んでもいないのにすっ飛んできて、あれやこれやと世話してくれて、別ルートからすいすいいちばんに通してくれる。
車イスと「勝ち組パス」の組み合わせは超強力で、結構な混雑であったにもかかわらず、実に効率的にいろいろ回れた。


ほんとは車イス使うほどのケガでもないと思うんだけど、USJのみなさん、どうもごめんなさい。
ターミネータースパイダーマンがおもしろかったです。
どちらも90分待ちのところ、待ち時間ゼロ、最前列で見せてもらいましたです。
バリアフリーユニバーサルデザインばんざい。

おれがきみたちくらいの頃は……


この上半期はずいぶんと残業が多かったので、ミーティングのときに、相当な婉曲表現で、かなり遠回しに、「ちょっと割り当てられる仕事が多すぎるんじゃないのか」といったような主張をほのめかしてみたところ、ボスはそのテーマに直接対峙するのを巧みにかわし、同年代同士で、「おれたちが30や40の頃はすごかった。毎年○百時間は残業してた。それくらいで当たり前だった」「ああ、そうだった、そうだった」的な懐かし話に持っていかれてしまった。
「最近の若いもんはだらしない……」というのが、それほど婉曲表現でなく、比較的明瞭にほのめかされているのである。


そこでさらに反論するほどのことでもないので、「ははは」と大人な対応で済ませる私ではあるが、心の中では、違うよボス、そうじゃないと思うよボス……と思っているんである。


例えば、今まさに定年を迎えつつある50代後半の団塊の世代が、20〜30年前を振り返って、「おれが若い頃はいくら働いても平気だった」「それにひきかえ近頃の若いもんはまるで覇気がない……」等と言ったりするのは、一見まともなように思えるけれども、そうではないのではないかと思う。
正確には、「おれが若かった頃は、誰もがバリバリ働く時代だった」「それにひきかえ近頃は、(おれも含めて)誰もが覇気がない……」と言うべきではないかと思う。


50代のおじさんたちは、近頃自分があまりバリバリ働かなくなった理由を、「自分が歳をとったから」だと思っている。
30代や40代の頃はまだまだ元気だったけど、もう定年も近づいてきたから、そんなには働けなくなったのだ、と。
だから、まだまだ若いお前たちがもっともっと働くべきなのだ、と。
しかし、一般論として、どうもそのようには思えない。


なぜなら、同じようなセリフは、現在(ぎりぎり)30代の自分にだって言えるからだ。


例えば、最近の中学生や高校生がいかに勉強しないかというのは、よく報道されているとおり、いや、それ以上に、なかなか壮絶なものがある。
夏休みの受験生なんかを見ていても、自分の時代とは比べようもないくらい呑気なもんであって、奴らを指導する立場なんかにあったりすると、ほんとにイライラさせられることが多い。
同世代の中では最も勉強しなかった部類であるこのぼくが言うのだから、間違いない。
だから、「おれが受験生の頃は、もっとしゃかりきになって勉強したもんだ」「それにひきかえ今どきの受験生ときたら……」というのは、ちょっと気を抜くとすぐに口をついて出てしまいそうなフレーズだ。


20年前の社会人がよく働いたように、20年前の高校生だって、今よりもずっと勉強していたのである。


近頃の30代が、20年前の30代に比べて仕事をしないのは、近頃の10代が20年前の10代ほど勉強しないのと同じだ。
言い換えれば、20年前はまだ、大人も子どもも、みんなもっとやる気になれる時代だったということであって、近頃は、大人も子どもも、みんなやる気が出にくい時代になってしまったということである。
そういう状況で、「おれが若い頃は……」というのは、言いたくなるのはすごくよくわかるのだけれども、言うべきでないセリフだと思う。


例えば40年前の高度成長期には、大人も子どもも、もっとずっと目をギラギラさせていたと思う。
今、子ども達の目が死んでいるとしたら、それは、大人たちの目が死んでいるのと同じ理由による。


もはや大人はバリバリ働くべき動機付けを失っているのに、バリバリ働かざるを得ない状況だけが残ってしまっている。
もはや子ども達は、必死になって勉強すべき必然性を失っているのに、勉強しろというプレッシャーだけが残ってしまっている。


そのイライラを、「おれがきみたちくらいの頃には……」と外へ向けるのではなく、「おれも昔はこんなふうじゃなかったのに……」と、自分に向けてみた方が、まだ少しは生産的なんじゃないだろうか。
「近頃の若いもん」が、自分といかに違っているかではなく、いかに似ているかということを、じっくり考えてみる方がずっといいと思う。