Gentlemen Take Polaroids / JAPAN を買い直す


ここ数年は、洋楽も邦楽も、すっかり新譜に対応できなくなって、買うCDはほとんどが古いものばかりになってしまった。
特に最近は、自分が中高生であった80年代のものを買い直すことが多い。


誰でもそうだと思うけれども、中学や高校の頃は限られた小遣いしかないのだから、レコード1枚を買うのも重要なイベントであって、たくさんの音楽を聴くには、友だちに借りたり、当時出始めたばかりの貸しレコード屋を利用したりして、カセットテープにダビングするのが主要な手段だった。
自分でレコードを買うときは、周囲の友人とかぶらないように、あいつが○○を買うから自分が△△を買う、とかいったような、事前のリサーチも重要だった、そう言えば。
そういう具合だったから、当時、熱心に聴いた音楽の多くは、カセットテープで所持していた。
もちろん、自分でアルバムを買ったものも、当時はCDなんてまだないから、レコードだ。


住居の狭さゆえ、アナログレコードの再生環境を撤去してしまってしばらくになる。
一時的な措置のつもりだったけれども、アナログプレーヤーを再び実家の物置から掘り出す日はいつになったら来るのか、全く目途も立たない。
また、中高生の頃にダビングしたカセットテープなどは、とうの昔に実家のどこか奥深くに収納されてしまって、もはや見つけだすことも困難だ。
大学生の頃には、レコード会社が配布するサンプルのカセットを自由にもらえる環境にあったので、当時、うちにあったカセットテープの数は、ゆうに1000を超えたと思う。
そんなものを今さら実家から発掘したところで、音質も悪いし、どうにもならない。


そういうわけなので、要するに何が言いたいかというと、中高生の頃に必死になって聴いていたアルバムのほとんどが、今、すぐには聴けない状況にあるということだ。
特に自分にとって重要なものは、CD化された時に買い直しているけれども、抜け落ちているものの方がはるかに多い。


中高生の頃とは当然趣味も変わってきているし、別になければ困ることがあるわけでもないのだけれども、早くも人生を振り返る時期に入ってきてしまったのか、ここのところ、どうもあの時代に聴いていた音楽が気になって仕方がない。
中高生の頃は、今ほど発売点数も多くなかったし、何より1枚1枚のアルバムが重要なので、それぞれをしつこく繰り返し聴いている。
だから、頭の中には、何となく残っている。
しかし、それを今、大人になった耳で聴き直したら、どんな風に聞こえるのか。
そういうことが気になるアルバムがいくつもある。


そういうわけで、前置きが長いですけども、10代前半の頃に聴いた音楽で、今は手元になくなっているものを、少しずつ買い直したりしている次第であります。


JAPANの『Gentlemen take polaroids(邦題:孤独な影)』も、そうした買い直しシリーズの一環。
これは、確か中2のときか。
しんちゃんか、ヤンキーのみーやんのどっちかに借りてダビングしたと思うのだけれども、自分でレコードを買わなかったことを悔いたほどに、非常によく聴いたアルバムだ。


我々よりも少し上の世代には、JAPAN は、70年代後半、KISS とかクイーンとかチープトリックとかと一緒くたにされて、ミュージック・ライフ的に主にビジュアル面で盛り上がったバンドとして認識されていることもあると思うけれども、我々テクノ世代にとっては少し違って、ニューウェイヴ〜テクノ系の一環として触手を伸ばした。
特に、当時のテクノ少年たちにとっては神に等しい存在であった坂本龍一が参加していることでも、『Gentlemen 〜』は話題になった。


JAPAN の最高傑作が、このアルバムの次の5作目にしてラストアルバム、『Tin Drum(邦題:ブリキの太鼓)』であることを認めるにやぶさかでない。
もともと独自の変態ロックバンドではあったけれども、後期、急速にその音楽性を進化させた JAPAN は、このラストアルバムで、いよいよ類例のない孤高のニューウェイヴ・サウンド(?)に到達した。
また、初期の変態ロックからエレクトリック路線に転じた3枚目『Quiet Life』も、楽曲のよさの点でも、前期 JAPAN の総仕上げ的な完成度を持つ。(と思う。こっちはアナログレコード所持で、やっぱり聴き直せない。現在、HMVにCDを注文中。もうすぐ届きます)
冷静に、客観的にレビューするならば、ぼくが中坊の頃に聴き込んだ『Gentlemen〜』は、その中間の、過渡期的な音であると言える。


この「買い直しシリーズ」では、自分の記憶に残っていた印象とはかけ離れて、「あれ? こんなショボかったっけ?」っていうことが多い。
80年代は、半端なコンピュータ技術が導入されているので、とにかくショボいサウンドが多い。
聴き直してがっかり、というのは決して珍しくないので、いつもちょっとどきどきする。
今回もどきどきした。
ショボい、と言うよりは、きっと恥ずかしい感じなんじゃないかと思っていた。
そう、80年代は、恥ずかしい音楽も多い。


しかし。
素晴らしかった。
この JAPAN 4枚目、予想を大きく上回る素晴らしさだった。
今回、おそらく20年ぶりくらいに聴き直して、改めて感動した。
買い直してよかった。


ぼくがこの4枚目を溺愛するのは、個人的な経験のバイアスによるものであることはわかっている。
でもやっぱり、『Tin Drum』よりも、(たぶん)『Quiet Life』よりも、このアルバムが好きだ。


『Tin Drum』との聴き比べにおいては、CD自体のクオリティの影響もあるかもしれない。
ぼくが持っている『Tin Drum』は、ずいぶん前にCD化されたときのものであるのに対し、今回の『Gentlemen 〜』は最新のデジタル・リマスター盤なので、そもそも音質が全然違う。
ただ、そのことを差し引いても、『Tin Drum』は、ドラムの大部分がマシンになっているので、マスタリング以前の問題として、この時代のプログラミングによるドラムだけに、そもそも音がショボい。
曲の良さやアレンジの完成度は『Tin Drum』の方が上だけれども、全編ナマ・ドラムである『Gentlemen 〜』と比べると、サウンド全体のクオリティでは太さに欠ける。


で、そのおそらく20年ぶりくらいに聴いた『Gentlemen 〜』。
何と言っても強烈なのはリズム・セクションだ。
ミック・カーンの奇妙なベースラインは当時も気になっていたけれども、改めて聴くと、すんごいな、やっぱりこれ。
まず、フレージングがあまりに奇矯で、ピッチが合ってるんだかどうかすらよくわからん。
いや、フレーズも変なんだけど、それ以上に弾き方が変なんだな、これは。
フレットレスで常にスライドしながら弾いてるので、ピッチは合ってるとも言えるが、はずしてるとも言える。
こいつは果たして巧いのか下手なのか、というような話題は昔からあったと思うけども、うーむ、確かによくわからん。
これは巧拙の問題じゃない。
後にも先にもこんなベースを弾く奴はおらんという意味で、やはり評価すべきだ。
そもそも、誰にもこんなベース、真似できん。


さらにすごいのが、ドラムのスティーブ・ジャンセン。
とにかく機械みたい。
タイムもアタックも、アクセントの付け方も、まるで揺れない。
こんなに正確に叩いてどうする。
プログラミングしたような正確さで、現在の録音だったら、誰もがコンピュータだと思うんじゃないだろうか。
この時代は、へんてこに入り組んだ複雑なパターンを正確に叩きこなすことが特に美徳とされるような風潮があったと思うのだけれども、そういう意味ではベスト・ドラマーかもしれん。
また叩いてるパターンも、小難しいと言うか、こざかしいと言うか、実に頭でっかちな考えすぎパターンで、白人ロック・ドラマーの極北。
でもそれがかっこいいんだ。


80年代のニューウェイヴは、理念先行で技術が伴わないパターンも多かったけれども、JAPAN にはちゃんと技術がある。
だから今聴いてもかっこいい。
仰々しいけれども、音楽として非常にきちんと(?)出来ている。
やってることは変なんだけども、それが技術的にちゃんとしてるから、サマになってる。


今聴き直してみても、やっぱりかっこいいと思うのは、中坊のときに好きだったM②「Swing」、M⑤(アナログではB①)「Methods of Dance」、M⑥「Ain't that peculiar」といったところ。
この辺は、アレンジ的にも次の『Tin Drum』につながる流れだ。
今回、このアルバムの買い直しを思い立ったのも、ある日突然、頭の中で「Methods of Dance」のサビが流れ始め、止まらなくなったからだった。


2週間くらい前に届いたのだけれども、以来、ほとんど毎日聴いている。
坂本龍一作曲のM⑧「Taking Islands in Africa」は、坂本的過ぎておもしろくない。
「Methods of Dance」、かっこいい。ミック・カーンが天才に思えてくる。


やはり10代の刷り込みはげに恐ろしい。
どうなんだろう、やっぱ、今時の若い衆が聴いたら、恥ずかしい音楽なのかもしれんな。

Tレックス研究室(9)


えーそれでは、マーク・ボランの詞がいかに音楽的に気持ちいい響きを持っているか、いかに口でころがして楽しいかというのを、具体的に見てみます。


素材は、代表作『The Slider』より。
例えば大ヒット曲「Telegram Sam」からこんな一節。


Jungle-faced Jake
Jungle-faced Jake
I say make no mistake
about Jungle-faced Jake


ちなみに、意味はわかりません(笑)。
「ジャングル顔のジェイク、いいか、ジャングル顔のジェイクのことでヘマはするなよ」、くらいの感じでしょうか。
たぶんそれ以上の意味は何もないと思う。
昨日書いたとおり、音だけに着目してみます。


まず、Jungle と Jake のJ音の連発。いわゆる頭韻。
このJの音というのが、音声学では破擦音と言いまして、そもそも発音してて気持ちいい音だと思うんだけれども、それを連続的に発音するのは、さらに気持ちがいい。
でもって、faced、Jake、say、make、mistake と、この一節で使われている単語のほとんどは、母音が〔 ei 〕という音で統一されている。
この曲は、歌もギターのリフと同じく4拍目のウラから入るのだけれども、歌的なアクセントとなる各小節の3拍目に、Jake, Jake, mistake, Jake と、この ei 音が持ってきてある。
このくどいほどの脚韻が、強烈な印象と、えもいわれぬ発語の快感をもたらす。


同じ曲の別の一節。


Purple Pie Pete
Purple Pie Pete
Your lips are like lightning
Girls melt in the heat


意味はわかりません(笑)。
中川五郎訳では、Purple Pie Pete を「クスリでぶっとびっぱなしのピート」と訳してるんだけども、そうなの? →ショーエ)
最初2行のP音6連発、3行目のL音の3連発と like lightning の部分の ai ai という母音の連続。
最後の行は heat が 1,2行目のPete と押韻
CDをお持ちの方は、詞を目で追いながら聴いてみてください。
それだけでも気持ちいいです。


英語の歌詞の世界では、韻を踏むのはまあ当たり前なんだけれども、このようにマーク・ボランの場合は、ボキャブラリーが独特な上に、やり方も徹底している。
ほとんど音の響きだけを考えて言葉を選んでいるようにすら見える。
音韻の響きの強烈さと、ファンタジックな語彙による四次元的なレトリックの相乗効果。このあたりがマーク・ボランの真骨頂ではないかと思う。
意味不明なんだけど何となくコミカルでファンタジックかつSF的なレトリックが、実に響きのよい音で発語されるところが、イギリス人に評価されるのだと思う。(おそらくアメリカ人にとっては「なんじゃこりゃ」だろうけど)


さて、日本人には鑑賞しにくいけれども、英語の詞には、音韻以外に、リズムの問題もある。
英単語にはアクセントというものがあって、さらにセンテンスの中でも強弱のリズムがある。
(日本でビートのある音楽が育ちにくかったのは、日本語の抑揚の特性と大きく関係があるような気がする)
例えば、あいさつの時に、最初に声をかけた方は、


How are you?
(弱) (強)(弱)


で、聞き返す方は、


I'm fine, and you?
(弱) (強) (弱) (強)


だとか、中学校で習ったと思うけど、こんな風に、センテンス単位でもリズムが出てくる。
これを意図的に操作してセンテンスを組み合わせれば、詩にリズムが、音楽が、自然と発生する。
英詩を作る上では、基本的かつ重要な技術だ。
学生の頃、英詩の授業があって、ワーズワースの詩を題材に、弱強のリズムだの、弱弱強のリズムだのと習ったのは、これでもかというくらいつまらなかったけれども、後に生きてきました(笑)。


歌詞は、ビートに言葉を乗せてるわけだから、この言葉のリズムが音楽のリズムとかみ合うことで、その気持ちよさが相乗的に加速する。
次は、そういうパターンの良くできた例です。
詳しくは実際にCDを聴いてもらうのがいちばんであって、文面で説明するには限界があるけれども、例えば同じく『The Slider』より、「Rock On」。
この曲はシャッフルの4拍子で、Aメロの4拍は、強・強・強・弱というアクセントになっているのだけれども、そのアクセントに、見事に詞がシンクロしている。


Mild Mouthed Rita
(強) (強)   (強)
She's a Chevy Chase cheetah
(弱)   (強)  (強)  (強)
Loves everyone everyone
(弱)


意味はわかりません (笑)。
音韻としては、ご覧の通り、1行目はM音、2行目はCH音の連発で頭韻を踏みまくる。
1、2行目は、Rita と cheetah という、見たこともないような意外性の脚韻。
とにかく、この、1,2,3,うん、1,2,3,うん、……というリズムで詞を読みながら曲を聴いてみてください。
詞の気持ちよさが身にしみます。


他のバースも素晴らしいので書いておきます。


Teddy's going steady
(強)   (強)  (強)
He's a silver-plated poet
(弱)   (強)  (強)  (強)
Loves everyone everyone
(弱)


Prophet pumped the car scar
(強)   (強)     (強)(弱)
Deeper only sweeter
(強)  (強)  (強)
Loves everyone everyone
(弱)


意味はいずれもわかりません(笑)。
悪しからず。
それでもとにかく、Prophet pumped the car scar って、口にするだけで気持ちいいんだ。


ぼくは英語という言語が基本的に好きではないと思っているのだけれども、少なくとも発語上の快感という点では、その色彩豊かな音韻とリズムにおいて、英語は日本語を凌駕する。
マーク・ボランの詞は、中高生頃のぼくに、そのことを身にしみて教えた。
正確には、マーク・ボランを天才詩人と呼ぶには抵抗がある。
マーク・ボランは、文学としての「詩」ではなく、「ロックの歌詞」を書くことにおいて、天才だったのだ。
ビートとメロディに乗った言葉として、マーク・ボラン以上に音楽的な詞を書いた人は、寡聞にして知らない。
その言葉は、明らかにTレックスの音楽全体に対しても、多大な効果をもたらしている。


以上、Tレックス研究室(ほぼ完)。

T.REX研究室(8)


詩というのは、本来、レトリックと音楽の両方で成立しているものだけれども、現代の日本の詩は、その音楽の方がかなりおろそかになっているので、日本人は詩の音楽性への注意を怠りがちだ。
七五調の例をあげるまでもなく、かつては日本の文学も、正しく音楽的であったはずだ。
そのことがどんどん忘れられているように思う。


うちの親ぐらいの世代だと、上品な場合は短歌や俳句の趣味があったり、下品な場合は詩吟や浪曲が好きだったりすることが、まだまだ割とある。
言葉が持つ音楽とレトリックの同時性を楽しむ感性が、この世代にはまだ残っているのだろうと思う。
て言うか、西洋音楽の素養のない世代だから、彼らにとっては、そういったものが音楽の代替物なのかもしれない。
それが、私どもくらいの年代になると、もう言葉と音楽はほとんど分離した文脈で捉えられているように思うんだけどもどうでしょう。
(最近のラップの人々なんかが、実に音楽的に言葉を組み立てるのはおもしろい現象だと思うけれども、あの人たちはレトリックの方があまりに弱いしな……。)


言うまでもなく、言語の実体は、文字ではなくて音だ。
だから、例えば「原初の文学」みたいなものを想定するとしたならば、それは書かれたものとしてではなく、語られるもの、吟じられるもの、として在ったに違いない。
詩がキング・オブ・文学として位置づけられるのは、歴史が古いからだけでなく、文学の本質だからなのだと思う。


だから、詩は、(て言うか、ほんとは小説も批評も何でも)、本来、吟じて快いものでなければならない。
文学的本質は、文字の中ではなく、音の中にあるはずだ。
レトリックが優れているだけでは不十分で、音楽として美しく響かなければいけない。
そこのところを忘れてはいけない。


えー、そういうわけで、何が言いたいかと言いますと、要するに、マーク・ボランは、音楽的な言葉を紡ぎ出すことにおいては、類い希なる天才であった、と(笑)。そういうことです。
前フリが仰々しくてすいません。


ミュージシャンとしてのマーク・ボランの評価は、「ど素人だ」という者と「天才だ」という者に、まっぷたつに分かれる。(正解は、これまでさんざん書いてきたように、「天才的素人」だと思うんだけども)
しかし、詩人としてのマーク・ボランは、少なくとも本国イギリスにおいては、一定して高い評価を与えられている。
その独特な詩世界は、他に例がない。


正直、ぼくには、そのレトリック的な善し悪しは、よくわからない。
マーク・ボランの詩は、ぼくにはまるで意味がわからない。
高校生の時、必死になって解読しようとしていたのだけれども、ほとんど何一つわからなかった。
今、一応、英語を生業とする身となったけれども、それでもやっぱりわからない。
シュール、と言えば、まあシュールなんだけれども、よくあるような難解気取りでもない。


まず、本人も「造語癖がある」と言っているとおり、意味不明の単語が頻出する(特にティラノザウルス・レックス時代)。
そして、マーク・ボランの文学的ルーツは、今流行りのC・S・ルイスの「ナルニア国物語」やトールキンの「指輪物語」といったような幻想文学であって、そういったところからの引用なども多いと思われる。(ちなみに、ティラノザウルス・レックスというバンド名は、レイ・ブラッドベリの短編からとったものだという話を昔何かで読んだ気がする。だから、SFも入ってる)
そのシュールな言葉の組み立て方は、本人いわく「ランボーに影響を受けた」とのことだけども、おそらくそんなたいそうなもんではないと思う。
単に、容易に意味がわからないところがランボー風だという程度のハッタリだろう。


しかし、それでもその独特のボキャブラリーと、意外性のある単語のチョイスは、イギリス人の趣味に合うらしく、マーク・ボランの詩を悪く言うレビューは見たことがない。
そのレトリック的なおもしろさを味わう英語力がないのが、実に残念だ。


だから、ここでは専ら、その音楽的な心地よさについて書きます。
とにかく、マーク・ボランの書く詞は、発語すること自体が気持ちいい。
リズム的にも、響きの上でも、実にうまい具合に単語が並べてある。
もちろん、本来は、その音楽的な響きの美しさと、独特のボキャブラリーが喚起するレトリック上のイメージとの同時性を味わわなければ、真に正しく鑑賞しているとは言えないのだろうけれども、単語の響きだけで十分に気持ちいいのがマーク・ボランの詞なのだ。


で、例えばどんな感じなのかというのは、また次回。

矢作俊彦『ららら科學の子』を読む


今頃になって読みました。
おもしろかったー。
読み終わるのもったいなかった。
全共闘のどたばたで中国に行ってた男が30年ぶりに日本に帰る、っていう設定だけでもう泣ける。
この設定思いついた時点で勝ちだわ、これ。
矢作俊彦って初めて読んだけど、ハードボイルドっちゅうイメージだけで、正直見くびってた。
知的レベル高いなあ、この人。