内田百輭(前編)


好きな作家は?というような質問にはあまり答えたくない気がするけれども、どうしても答えなければならないようなことになると、内田百輭を挙げる。
高校生の頃に初めて読んで、それ以来、何度も、ときどき思いついたときに読み直したりする。


内田百輭が稀代の名文家であることは誰もが認めるところであると思うけれども、百輭の文章のどこがそんなに優れているかと言うと、それはやっぱり文章のリズムではないかと思っている。
村上春樹が、文体のリズムというのは天性のものであって、直そうと思ってもなかなか直るものではない、というようなことを書いていた気がする。
当の村上春樹も、リズムという点で極めて優れた書き手だ。
ぼくはどうしても村上春樹のあのスカしたような文体には抵抗を覚えるのだけれども、それでも読み始めるとぐんぐん読んでしまうのは、ひとえにリズムが絶妙だからだろうと思う。
内田百間村上春樹も、どちらも音楽好きとして知られているので、文章のリズム感と音楽のリズム感は、やっぱり関係があるのかもしれない。


昔、某商業誌に原稿を書いていた頃は、原稿用紙に向かう前に内田百輭の短い随筆を2〜3本読むのを習慣にしていた。
そうやって百輭の文体のリズムを体に染みこませておいて、そのリズムに乗ったまま原稿を書く。
そうすると、なんとなく内田百輭のリズムで、上手に書ける気がした。
書きたいと思っていることを必ずしも全部書かず、文章のリズムを優先して全体を整える、というような技術を、内田百輭の文体のまねごとをしているうちに自然と意識するようになった。


百輭の著作は、かつて旺文社文庫で全て網羅されていて、それを順に買っていけばいつかは全部揃うと思っていた。
高校生の頃に買ったのも、全部旺文社文庫だった。


ところが、いつの間にかその旺文社文庫自体がなくなってしまい、気がついたら、内田百輭旺文社文庫のシリーズは、古本市場でも、もとの定価以上の値段がついている。


手に入りにくいとなると、余計ほしくなる。
その後は、福武文庫から出版されるようになって、それも何冊かは買ったけれども、福武の方は、新漢字、現代かなづかいになおされていて、読んでいてもどうも調子が出ない。
やっぱり百輭は、旧字・旧かなで読みたい。(ときどき読めない漢字あるけど)
それに、何より、本棚に旺文社文庫と福武文庫が混在しているのが気にくわない。


それで、7〜8年くらい前だろうか、ネットオークションを使って、旺文社文庫版を一気にそろえてしまうことにした。
上京したときに、神田の古書店街なんかも物色したけれども、たいていはネットで買った方が安い。
別に初版でなければとかいうような面倒なこだわりがあるわけでもなし、他人の蔵書印が押してあっても一向に構わない。
なるべくきれいな状態ので、そろいさえすればいい。


その頃は結構頻繁に出品があって、まとめて何冊も出品している人のを狙って入札していたら、わりと短期間ですぐにコンプリートできた。
やむを得ず既に持っているものもいっしょに買ってしまうことも何度かあったけれども、重複したものはやはりネットで売り払った。


そうやってやっとそろえたら、全39冊を発行順に書棚に並べて、その壮観に大変満足した。
満足したはいいけれども、そうやっていっぺんにそろえてしまうと、案の定なかなか読まないものであって、しかも、その中には高校生の頃から自分で徐々に買いそろえたものもたくさん混じっているので、だんだん、どれが既読でどれが未読なんだかわからなくなってきた。
有名な「百鬼園随筆」や「阿房列車」のシリーズ、「ノラや」などは確実にみな高校生の頃に読んでいるのがわかっているから、承知の上で2度目、3度目を読んだりもするのだけれども、それ以外のものは、初めて読んでいるんだか2回目なんだか、よくわからない。


そういう具合なので、全部そろえた達成感はあるのだけれども、全部を読破したという達成感は、おそらくいつまで経っても得られないのではないかと思う。


先週の東京出張のときは、「随筆億劫帳」というのを持っていった。
内田百輭の随筆はひとつひとつが短いので、出張のときなんかにちょこちょこ読むにはたいへん適している。
この本は、2回目くらいのつもりで選んだのだけれども、いざ読んでみると、どうも初めてらしい。
もし読んだことがあったなら絶対に覚えているはずだと思えるような印象的な箇所がいくつもあったからで、今さらながらやっぱり内田百輭はいいなあと思った。


全巻を読み終えてしまうのは勿体ないような気がするので、考えようによっては、いつまで経っても全部読み終えた気がしないのは、却って好都合かも知れない。