内田百輭(後編)


比べるのもおこがましいけれども、年を追うごとに、だんだん自分の行動パターンが百輭に似てきた様な気がする。
意図的に真似ようとした部分もあるけれど、若い頃から内田百輭ばかり読んでいたからだんだんそうなってきたのか、それとも、そもそも資質に近いところがあるから好きになったのか、どちらなのかよくわからない。


どこが似ているかと言って、勿論図々しいことを言うつもりはないのであって、似てきたと感じるのは、みっともないようなところばかりである。


例えば百輭はたいへんに食い意地が張っていて、食べたいという気持ちや飲みたいという欲求を我慢するのが、実に苦手らしい。
その気持ちが、いたいほどよくわかる。
「お行儀が悪いので、好きとなつたらいくらでも食べたい」というようなところの心持が、他人事ではないような気がする。


晩年の百輭は、お昼ご飯には必ずざる蕎麦1枚を食べると決めるようになり、その後は夕飯まで、一切の間食をしない。
水も口にしない。
全ては晩酌を美味しくするためである。
その気持ちがたいへんよくわかる。
夕方とかに出先で甘いものなどを出されたりすると、実に迷惑する。


お昼にざる蕎麦だけというのも、若い頃には物足りなすぎて真似できなかったけれども、近頃は、そのくらいがちょうどいい按配だということがわかってきた。
しかも、毎日飽きずに確実に食べたくなるのはやはりざる蕎麦しかないのであって、他のメニューではこのスタイルは成立しない。
自分の欲望をつくづくよく吟味した上で、なおかつその欲望を恥じることもなく、また妥協することもなしに到達した食の(不)作法であることがわかる。
百輭のやることには間違いがない。


また、先週、出張のときに持っていった「随筆億劫帳」には、次のような箇所があった。


身辺が少し忙しいと、すぐ新聞の読み残しが溜まつて始末に困る。
新聞なぞ無ければいいと思ふ。
新聞がきらひなのでなく、餘り一生懸命に読むので、その日の内に読み切れないと翌日に廻すから、それが段段に溜まる。今手許にある一番古いのは、百日餘り前の二月十七日附で、吉田内閣成立の記事と、新大臣の写真が載つてゐる。しかしそれから今日迄の日日の新聞がずつと溜まってゐるわけではない。読んでしまつた日の方が多く、間は抜けているから、溜まつてゐるのを積み重ねて、厚みが二寸位のものである。
何をそんなに熱心に読むと云ふ方針があるわけではない。気がすむ迄読まないと気がすまないと云ふだけの事で、癇の所為の様な所もある。
気がすむ迄読むと云ふのが癖になつてゐるから、忙しくても、人が来ても、酔つ拂つても、その日の新聞を読み残した儘片附けるなどと云ふ事は思ひも寄らない。


……これと全く同じ事を、ここ10年くらいやっている。
まるで自分のことを書かれているような気がした。
ただし、うちに積んである読まれないままの古新聞は、厚み二寸どころではなく、今日現在では、腰くらいの高さになったのが、2段ある。
さっきも、2年前の新聞を読んだばかりだ。
もっとも、百輭の当時とは、新聞自体の様子が違う。


この頃は二頁だから難有いと思ふ。溜まつてゐるのは四頁の日が多い。戦前の十二頁、十六頁、どうかすると夕刊を入れて二十頁などといふのを思ひ出すと悪夢の様である。一時行はれたタブロイド版と云ふのは新聞の粋である。簡にして要を得た點から、作る側の労苦は大変だらうと思つたが、しかし手ざはりはよくなかつた。


でも、二頁の新聞を厚み二寸に溜めていると考えると、やはり同じようなレベルかもしれない。
古くなった新聞を読むという行為についての感想も、正に我が意を得たりだ。


溜まつた新聞を読むのは大変な負担で大仕事である。しかし日が経つた新聞は、その日附の日によむよりはずつとらくで簡単にすみ、見出しを見ただけでもうよまなくてもよくなつた記事がいくつもあるから、それだけ得をする。


ぼくの場合、以前は職場にまで古新聞を持ち込んで読んでいたこともあって、よく周りの人に、何のためにそこまでして読まねばならないかというようなことを訊かれた。
そういうことを訊かれても困るのであって、それは百輭先生も書いておられるとおりである。


古くなつたニュースを読んで何にするかと云ふに、勿論何にすると云ふ目的はないので、役に立てようと思つて読むのではない。ただ読んでしまへばそれでいいのである。さうして重なつてゐる新聞がいくらかでも片附けばさつぱりする。何とも云はれない好い心持になる。


奇癖であるとの誹りを逃れ得ない習慣だと思っていたけれども、百輭先生のお墨付きをもらったような気になったので、これからは堂々と古新聞を読もうと思う。

内田百輭(前編)


好きな作家は?というような質問にはあまり答えたくない気がするけれども、どうしても答えなければならないようなことになると、内田百輭を挙げる。
高校生の頃に初めて読んで、それ以来、何度も、ときどき思いついたときに読み直したりする。


内田百輭が稀代の名文家であることは誰もが認めるところであると思うけれども、百輭の文章のどこがそんなに優れているかと言うと、それはやっぱり文章のリズムではないかと思っている。
村上春樹が、文体のリズムというのは天性のものであって、直そうと思ってもなかなか直るものではない、というようなことを書いていた気がする。
当の村上春樹も、リズムという点で極めて優れた書き手だ。
ぼくはどうしても村上春樹のあのスカしたような文体には抵抗を覚えるのだけれども、それでも読み始めるとぐんぐん読んでしまうのは、ひとえにリズムが絶妙だからだろうと思う。
内田百間村上春樹も、どちらも音楽好きとして知られているので、文章のリズム感と音楽のリズム感は、やっぱり関係があるのかもしれない。


昔、某商業誌に原稿を書いていた頃は、原稿用紙に向かう前に内田百輭の短い随筆を2〜3本読むのを習慣にしていた。
そうやって百輭の文体のリズムを体に染みこませておいて、そのリズムに乗ったまま原稿を書く。
そうすると、なんとなく内田百輭のリズムで、上手に書ける気がした。
書きたいと思っていることを必ずしも全部書かず、文章のリズムを優先して全体を整える、というような技術を、内田百輭の文体のまねごとをしているうちに自然と意識するようになった。


百輭の著作は、かつて旺文社文庫で全て網羅されていて、それを順に買っていけばいつかは全部揃うと思っていた。
高校生の頃に買ったのも、全部旺文社文庫だった。


ところが、いつの間にかその旺文社文庫自体がなくなってしまい、気がついたら、内田百輭旺文社文庫のシリーズは、古本市場でも、もとの定価以上の値段がついている。


手に入りにくいとなると、余計ほしくなる。
その後は、福武文庫から出版されるようになって、それも何冊かは買ったけれども、福武の方は、新漢字、現代かなづかいになおされていて、読んでいてもどうも調子が出ない。
やっぱり百輭は、旧字・旧かなで読みたい。(ときどき読めない漢字あるけど)
それに、何より、本棚に旺文社文庫と福武文庫が混在しているのが気にくわない。


それで、7〜8年くらい前だろうか、ネットオークションを使って、旺文社文庫版を一気にそろえてしまうことにした。
上京したときに、神田の古書店街なんかも物色したけれども、たいていはネットで買った方が安い。
別に初版でなければとかいうような面倒なこだわりがあるわけでもなし、他人の蔵書印が押してあっても一向に構わない。
なるべくきれいな状態ので、そろいさえすればいい。


その頃は結構頻繁に出品があって、まとめて何冊も出品している人のを狙って入札していたら、わりと短期間ですぐにコンプリートできた。
やむを得ず既に持っているものもいっしょに買ってしまうことも何度かあったけれども、重複したものはやはりネットで売り払った。


そうやってやっとそろえたら、全39冊を発行順に書棚に並べて、その壮観に大変満足した。
満足したはいいけれども、そうやっていっぺんにそろえてしまうと、案の定なかなか読まないものであって、しかも、その中には高校生の頃から自分で徐々に買いそろえたものもたくさん混じっているので、だんだん、どれが既読でどれが未読なんだかわからなくなってきた。
有名な「百鬼園随筆」や「阿房列車」のシリーズ、「ノラや」などは確実にみな高校生の頃に読んでいるのがわかっているから、承知の上で2度目、3度目を読んだりもするのだけれども、それ以外のものは、初めて読んでいるんだか2回目なんだか、よくわからない。


そういう具合なので、全部そろえた達成感はあるのだけれども、全部を読破したという達成感は、おそらくいつまで経っても得られないのではないかと思う。


先週の東京出張のときは、「随筆億劫帳」というのを持っていった。
内田百輭の随筆はひとつひとつが短いので、出張のときなんかにちょこちょこ読むにはたいへん適している。
この本は、2回目くらいのつもりで選んだのだけれども、いざ読んでみると、どうも初めてらしい。
もし読んだことがあったなら絶対に覚えているはずだと思えるような印象的な箇所がいくつもあったからで、今さらながらやっぱり内田百輭はいいなあと思った。


全巻を読み終えてしまうのは勿体ないような気がするので、考えようによっては、いつまで経っても全部読み終えた気がしないのは、却って好都合かも知れない。

『農で起業する!/杉山経昌』を読む


まだ風邪が治りません。
もう今日で10日目。
咳がどんどんひどくなる。
う゛ー。


あんまりこういう本は読まないのだけれども……。
風邪で気も弱っているのか、図書館で手にとって何となく。
いや、もともと、農業への憧れが日に日に強く……というのもあるんだけれども。


別に憧れなくても、農業始めようと思えばいつでも始められる環境にもあるんだけど。
て言うか、いずれは嫌でもある程度やることになるんだろうけど。


でも、自分から前向きにそういう気分が沸々と湧いてきたのは、ここ数年だ。
まさかこんな事考えるようになるとは、予想できなかったな、さすがに。
うーん、良さそうだ、農業。
食えるかな。
家族、ついてくるかな。
無理だな、それは。


予想外に良書であった。
くだらねえ本かと思ってた。
外資系のサラリーマンとしてバリバリ28年働いた後に就農した人の実体験。
書きっぷりが良心的で、信頼できる。
有機農業とか無農薬とか、無理すんな」みたいなトーンで、リアリティがある。


勤め人としてのギスギスした生活に疲れた方、いかがでしょうか。
実際にやるやらないはともかくとして、一時の夢想の材料として、なかなかいい話です。
日本の農業政策の愚かさの実態にも触れるので、そこは腹立つけども。

風邪ひきました


今週は、月曜から木曜までずっと東京出張で、いっしょに行ったケニア人に付き合って往きは日曜深夜発の夜行バス。
夜行バスは知らない間に価格破壊が起きていたようで、いまどきはべらぼうに安い。
安いはいいが、つらいのはやはりつらい。
しかも、明け方前に着いた東京は、ひどい土砂降り。
もともと風邪気味だったのが、このバスの旅で完全に風邪をひき、しかもその日の夜は深酒したせいもあってか、ホテルに戻ると途端に発熱。
そのまま熱出っぱなし。
熱出しながら東京での仕事をクリア。
今日は普通に出勤したけれども、咳と頭痛がひどい。
熱は、もうあっても微熱だろうと思っていたら、いま測ったら、また38度。
うーむ、さすがに明日は病院行こうかな。

語学の天才


同僚のケニア人は、異様に日本語が上手い。
日本語を話す外国人は周囲にたくさんいるのだけれども、その中でも図抜けて上手い。
敬語がうちの嫁(日本人)よりも上手い。


先日、そのケニア人に、日本語→英語の翻訳を頼んだ。
彼の母語は自分の部族の言葉だけれども、それ以外に、母国語であるスワヒリ語公用語である英語、そして日本語を自在に操る。
ただ、英語や日本語は、やはり真のネイティブではないので、彼もいまいち自信が持てない。
翻訳後の最終稿は、ぼくのところへ持ってきて、2人でチェックすることにしている。


今回の依頼はなかなかハードな内容の翻訳で、なおかつ締切がきつく、しかも彼はその時、他の仕事で忙しかった。
いつもは時間をかけて丁寧に訳文を考え、推敲を重ねた上で原案を持ってくるのだけれども、今回はそうするだけの時間がなく、不本意ながらも、彼は自分で納得のいかない中途半端な状態の英文を持って来ざるを得なかった。


その時に彼が言った言葉。
「すいません、こんな半ナマの状態で渡しちゃって」


この「半ナマ」という表現にいたく感動した。
その表現の出典はどこかと訊くと、いや咄嗟に思いついたのだと言う。
uncooked の訳語としてひらめいたのか、それとも母語スワヒリ語に同種の表現があるのかどうか知らないけれども、この「完全に仕上げられていない様」を、第4言語である日本語で咄嗟に「半ナマ」と言い表すセンスがすごい。


日本語の学習歴は5年強らしいので、まあ一種の天才だろうと思う。

いじめる子ども、いじめられる子ども


いじめる側に罪の意識がない、というのは、実際にいまどきの子どもたちと接していても、常々感じるところであります。


結局、人付き合いの基本が出来ていないと言うか、他人との距離の取り方がものすごーく不器用なまま成長しちゃってるような印象です。
こういう言い方をすると他人に不快感を与える、とか、こういう振る舞いは失礼になる、とか、そういうことに対する感度が、あり得ないほど低いわけです。
電車の中で傍若無人に振る舞ったりとか、コンビニの前に座り込んでたむろしてたりとか、敬語が一切使えなかったりだとか、最近の中高生なんかに関してよく言われるような特徴的なシーンがたくさんありますけれども、要するに、空気が読めないってことだろうと思います。
読めない、って言うか、読もうともしてない、読むべきだという意識がもともとない。
内田樹なんかは、「身体の感度が低い」とか、そういうような言い方をよくしていると思いますけども、それも同じようなことを言ってるんだと思います。


で、要するに、そういう空気を読まない子どもたち同士が、学校という閉じられた社会の中で交差しますと、どうしても軋轢が生じる局面が出てくるわけです。
本人はただ何も考えずに奔放に振る舞っているだけなんだけども、もともと他人への気遣いという習慣を忘れかけている人々ですから、それが突出すると、周囲にしてみれば、「あいつ、とんでもねえ」っていうことになってきてしまう。
で、その「あいつ、とんでもねえ」って思ってる人々もまた空気が読めませんから、実に間違った方法で、「ちょっとわからせてやらねえと」っていう行動に出るわけです。
それが第三者的には「いじめ」以外の何ものでもないような行動であっても、何しろ本人たちは空気を読みませんから、どちらかと言うと、「正義の制裁」くらいに思ってたりするわけです。


最終的には、いじめる側がいけないのはもちろんですけれども、事情を細かく追求していけばいくほど、「どっちもどっちだ」っていう意見が出てきてしまうのは、そのような状況が多いからではないかと思います。
確かに、他人との間合いをうまく取れない、という点では、どちらもよく似ているんです。


もちろん、いじめの問題はケースバイケースであって、もっとずっと悪質なものもたくさんあると思いますから、一概には言えません。
でも、近年のいじめが往々にして「行きすぎる」のは、やっぱり空気が読めてないっていうことが基本にあるように思います。


以前、次のような事例を見ました。
かねてよりずっとじめじめとしたいじめにあっていたAという生徒がいたのですが、その生徒には、Bという友だちがおりました。
Bは実にしっかりした子で、頻繁にAの相談にのり、励まし、協力を続けました。
Aは、学校を休みがちだったのですが、Bの力添えのおかげで何とか1年間を乗り切り、無事次の学年へと進級しました。
そしてクラス替えになったわけですが、担任の配慮で、AとBは同じクラスにしてあり、当初はそのことをAもたいへん喜んでいました。
しかし、数ヶ月すると、Aには、Cという別の友だちができました。
Cもまたしっかりしたよい子で、あいかわらずいじめられているAの相談によくのるようになりました。
すると、Aは、あろうことか、まるで厄介払いでもするかのように、途端にBを無視し始めたのです。
今までさんざん世話をして、突然の夜中の電話にも嫌な顔ひとつせず対応し、励まし続けてきたBにしてみれば、当然「これはいったいどういうことか」という話です。
外側から見ていても、さすがに、ちょっとそれはないだろう、と思いました。
いじめる側からすれば、Aは、「そういうところがダメなんだ、あいつは」ということになります。
いじめる側は、Aの「そういうところ」に、正義の制裁を加えているつもりなんです。
それが結果的に、いじめ以外の何ものでもないということを意識できずに。


繰り返しますが、結果的に「いじめ」になっている場合、いかなる理由があろうとも、それはやっぱりいじめる方が悪いです。
でも、この事例のように、子ども同士の人間関係を細かく調べていけばいくほど、「いじめられる側にも問題がある」とか「どっちもどっちだ」などという議論が出てきてしまうのは事実なんです。
また、いじめられている側が、過度に被害妄想的になっていたり、虚言癖を持っていたりするケース(実際には大していじめられていなかったりする)もあるので、その辺もまた難しいところ。
そう、自分の周りの空気は読まないんですけども、自分自身の感情に対しては、ものすごく繊細で、過敏に反応します、今どきの子どもは。
明らかに、「自分を見つめすぎ」です、はい。


小学生から、中学、高校と、年齢が進むにつれて、いじめへの諦観が強くなり、いじめに対する罪の意識も弱くなっていくという調査結果は、事態の深刻さを表しています。
大きくなるにつれて「いじめはやっぱりいけない」とだんだん認識できるようになっていくのならともかく、逆に年齢が進むほどに、「しょうがない」ってなってくんですから。


ずっと前にも書いた気がしますけども、いじめは、道徳や倫理ではなくなりません。
いじめは、子ども社会の中に、必要悪として構造的にがっちり組み込まれてしまっています。
そして、くどいようですが、それは大人の社会の中にいじめの構造が蔓延しているからに他なりません。