T.REX研究室(8)


詩というのは、本来、レトリックと音楽の両方で成立しているものだけれども、現代の日本の詩は、その音楽の方がかなりおろそかになっているので、日本人は詩の音楽性への注意を怠りがちだ。
七五調の例をあげるまでもなく、かつては日本の文学も、正しく音楽的であったはずだ。
そのことがどんどん忘れられているように思う。


うちの親ぐらいの世代だと、上品な場合は短歌や俳句の趣味があったり、下品な場合は詩吟や浪曲が好きだったりすることが、まだまだ割とある。
言葉が持つ音楽とレトリックの同時性を楽しむ感性が、この世代にはまだ残っているのだろうと思う。
て言うか、西洋音楽の素養のない世代だから、彼らにとっては、そういったものが音楽の代替物なのかもしれない。
それが、私どもくらいの年代になると、もう言葉と音楽はほとんど分離した文脈で捉えられているように思うんだけどもどうでしょう。
(最近のラップの人々なんかが、実に音楽的に言葉を組み立てるのはおもしろい現象だと思うけれども、あの人たちはレトリックの方があまりに弱いしな……。)


言うまでもなく、言語の実体は、文字ではなくて音だ。
だから、例えば「原初の文学」みたいなものを想定するとしたならば、それは書かれたものとしてではなく、語られるもの、吟じられるもの、として在ったに違いない。
詩がキング・オブ・文学として位置づけられるのは、歴史が古いからだけでなく、文学の本質だからなのだと思う。


だから、詩は、(て言うか、ほんとは小説も批評も何でも)、本来、吟じて快いものでなければならない。
文学的本質は、文字の中ではなく、音の中にあるはずだ。
レトリックが優れているだけでは不十分で、音楽として美しく響かなければいけない。
そこのところを忘れてはいけない。


えー、そういうわけで、何が言いたいかと言いますと、要するに、マーク・ボランは、音楽的な言葉を紡ぎ出すことにおいては、類い希なる天才であった、と(笑)。そういうことです。
前フリが仰々しくてすいません。


ミュージシャンとしてのマーク・ボランの評価は、「ど素人だ」という者と「天才だ」という者に、まっぷたつに分かれる。(正解は、これまでさんざん書いてきたように、「天才的素人」だと思うんだけども)
しかし、詩人としてのマーク・ボランは、少なくとも本国イギリスにおいては、一定して高い評価を与えられている。
その独特な詩世界は、他に例がない。


正直、ぼくには、そのレトリック的な善し悪しは、よくわからない。
マーク・ボランの詩は、ぼくにはまるで意味がわからない。
高校生の時、必死になって解読しようとしていたのだけれども、ほとんど何一つわからなかった。
今、一応、英語を生業とする身となったけれども、それでもやっぱりわからない。
シュール、と言えば、まあシュールなんだけれども、よくあるような難解気取りでもない。


まず、本人も「造語癖がある」と言っているとおり、意味不明の単語が頻出する(特にティラノザウルス・レックス時代)。
そして、マーク・ボランの文学的ルーツは、今流行りのC・S・ルイスの「ナルニア国物語」やトールキンの「指輪物語」といったような幻想文学であって、そういったところからの引用なども多いと思われる。(ちなみに、ティラノザウルス・レックスというバンド名は、レイ・ブラッドベリの短編からとったものだという話を昔何かで読んだ気がする。だから、SFも入ってる)
そのシュールな言葉の組み立て方は、本人いわく「ランボーに影響を受けた」とのことだけども、おそらくそんなたいそうなもんではないと思う。
単に、容易に意味がわからないところがランボー風だという程度のハッタリだろう。


しかし、それでもその独特のボキャブラリーと、意外性のある単語のチョイスは、イギリス人の趣味に合うらしく、マーク・ボランの詩を悪く言うレビューは見たことがない。
そのレトリック的なおもしろさを味わう英語力がないのが、実に残念だ。


だから、ここでは専ら、その音楽的な心地よさについて書きます。
とにかく、マーク・ボランの書く詞は、発語すること自体が気持ちいい。
リズム的にも、響きの上でも、実にうまい具合に単語が並べてある。
もちろん、本来は、その音楽的な響きの美しさと、独特のボキャブラリーが喚起するレトリック上のイメージとの同時性を味わわなければ、真に正しく鑑賞しているとは言えないのだろうけれども、単語の響きだけで十分に気持ちいいのがマーク・ボランの詞なのだ。


で、例えばどんな感じなのかというのは、また次回。