いじめる子ども、いじめられる子ども


いじめる側に罪の意識がない、というのは、実際にいまどきの子どもたちと接していても、常々感じるところであります。


結局、人付き合いの基本が出来ていないと言うか、他人との距離の取り方がものすごーく不器用なまま成長しちゃってるような印象です。
こういう言い方をすると他人に不快感を与える、とか、こういう振る舞いは失礼になる、とか、そういうことに対する感度が、あり得ないほど低いわけです。
電車の中で傍若無人に振る舞ったりとか、コンビニの前に座り込んでたむろしてたりとか、敬語が一切使えなかったりだとか、最近の中高生なんかに関してよく言われるような特徴的なシーンがたくさんありますけれども、要するに、空気が読めないってことだろうと思います。
読めない、って言うか、読もうともしてない、読むべきだという意識がもともとない。
内田樹なんかは、「身体の感度が低い」とか、そういうような言い方をよくしていると思いますけども、それも同じようなことを言ってるんだと思います。


で、要するに、そういう空気を読まない子どもたち同士が、学校という閉じられた社会の中で交差しますと、どうしても軋轢が生じる局面が出てくるわけです。
本人はただ何も考えずに奔放に振る舞っているだけなんだけども、もともと他人への気遣いという習慣を忘れかけている人々ですから、それが突出すると、周囲にしてみれば、「あいつ、とんでもねえ」っていうことになってきてしまう。
で、その「あいつ、とんでもねえ」って思ってる人々もまた空気が読めませんから、実に間違った方法で、「ちょっとわからせてやらねえと」っていう行動に出るわけです。
それが第三者的には「いじめ」以外の何ものでもないような行動であっても、何しろ本人たちは空気を読みませんから、どちらかと言うと、「正義の制裁」くらいに思ってたりするわけです。


最終的には、いじめる側がいけないのはもちろんですけれども、事情を細かく追求していけばいくほど、「どっちもどっちだ」っていう意見が出てきてしまうのは、そのような状況が多いからではないかと思います。
確かに、他人との間合いをうまく取れない、という点では、どちらもよく似ているんです。


もちろん、いじめの問題はケースバイケースであって、もっとずっと悪質なものもたくさんあると思いますから、一概には言えません。
でも、近年のいじめが往々にして「行きすぎる」のは、やっぱり空気が読めてないっていうことが基本にあるように思います。


以前、次のような事例を見ました。
かねてよりずっとじめじめとしたいじめにあっていたAという生徒がいたのですが、その生徒には、Bという友だちがおりました。
Bは実にしっかりした子で、頻繁にAの相談にのり、励まし、協力を続けました。
Aは、学校を休みがちだったのですが、Bの力添えのおかげで何とか1年間を乗り切り、無事次の学年へと進級しました。
そしてクラス替えになったわけですが、担任の配慮で、AとBは同じクラスにしてあり、当初はそのことをAもたいへん喜んでいました。
しかし、数ヶ月すると、Aには、Cという別の友だちができました。
Cもまたしっかりしたよい子で、あいかわらずいじめられているAの相談によくのるようになりました。
すると、Aは、あろうことか、まるで厄介払いでもするかのように、途端にBを無視し始めたのです。
今までさんざん世話をして、突然の夜中の電話にも嫌な顔ひとつせず対応し、励まし続けてきたBにしてみれば、当然「これはいったいどういうことか」という話です。
外側から見ていても、さすがに、ちょっとそれはないだろう、と思いました。
いじめる側からすれば、Aは、「そういうところがダメなんだ、あいつは」ということになります。
いじめる側は、Aの「そういうところ」に、正義の制裁を加えているつもりなんです。
それが結果的に、いじめ以外の何ものでもないということを意識できずに。


繰り返しますが、結果的に「いじめ」になっている場合、いかなる理由があろうとも、それはやっぱりいじめる方が悪いです。
でも、この事例のように、子ども同士の人間関係を細かく調べていけばいくほど、「いじめられる側にも問題がある」とか「どっちもどっちだ」などという議論が出てきてしまうのは事実なんです。
また、いじめられている側が、過度に被害妄想的になっていたり、虚言癖を持っていたりするケース(実際には大していじめられていなかったりする)もあるので、その辺もまた難しいところ。
そう、自分の周りの空気は読まないんですけども、自分自身の感情に対しては、ものすごく繊細で、過敏に反応します、今どきの子どもは。
明らかに、「自分を見つめすぎ」です、はい。


小学生から、中学、高校と、年齢が進むにつれて、いじめへの諦観が強くなり、いじめに対する罪の意識も弱くなっていくという調査結果は、事態の深刻さを表しています。
大きくなるにつれて「いじめはやっぱりいけない」とだんだん認識できるようになっていくのならともかく、逆に年齢が進むほどに、「しょうがない」ってなってくんですから。


ずっと前にも書いた気がしますけども、いじめは、道徳や倫理ではなくなりません。
いじめは、子ども社会の中に、必要悪として構造的にがっちり組み込まれてしまっています。
そして、くどいようですが、それは大人の社会の中にいじめの構造が蔓延しているからに他なりません。