ピアニストは分裂気質か その2


昨日の続き。
音楽というのは、本来、全く身体的なものであって、音楽の快感は身体性の中にあるはずなのだけれども、ピアノという楽器は、その身体性を拒絶するような部分があるんじゃないか、という話。


実際、ピアノというのは、実に整然と、理詰めで作られているようなところがある。
そして、その「理」とは、もちろん古典的な西洋の音楽理論の理である。


我々が普段慣れ親しんでいる西洋の音階は、オクターブの間を12等分した平均律に基づく。
そして、西洋の古典的な音楽理論は、その平均律を、それぞれ7音階の長調短調、メジャーとマイナーの二元論で解釈する。
我々は「ドレミファソラシド」という音階を自明のものとして考えがちだけれども、実際にはこれは、音の世界を解釈するための、ほんの一例に過ぎない。
世界的に見れば、多数派は5音階であって、「ドレミ……」という7音階はむしろ異端らしい。
ピアノは、そうした西洋の音楽理論を、極めて整然と図式化したような楽器なのだ。


もっと言うと、ピアノというのは、キーがCの場合、つまりハ長調を基準にして設計された楽器である。
ハ長調の曲を弾くとき、ピアノは、基本の7音階をドレミファ……と、白鍵だけで弾けるように作ってあって、あまり使わない音を、黒鍵として、奥の方に小さく、ちょっと不便な場所に配置している。
ミとファの間、シとドの間にだけ黒鍵がないのは、ピアノが、西洋の7音階の、しかもハ長調を基準にして作られたからである。


そして、何を隠そう、楽譜自体も、そのピアノと同様の作りになっている。
ハ長調のときは、基本的に黒鍵、すなわち♯や♭を表示しなくてもいいのが西洋の楽譜の世界なわけだけれども、よく考えると、これはおかしい。
楽譜上で、ドからレへ1段上がると、音は半音ではなくて1音上がる。だから、ドとレの中間の音を表示するには、♯や♭といった記号を使うことになる。レからミ、ファからソも同様。
ところが、ミからファ、シからドのときだけは、同じように楽譜上は1段上がっていても、実際の音は半音しか上昇していない。
おかしい。
わかりにくい。
すっきりしていない。
そもそも楽譜自体がピアノと連動しているわけだ。


ハ長調を基準にしているから、他の調で演奏するときは、ちょっとめんどくさい。
例えばイ長調の曲だと、楽譜上ではドとファとソを常に♯に読み替えなければならないし、ピアノではそれらの音を奥まったところにあるちっちゃい黒鍵で弾かなければならない。
移調するのが実に難しい。


ギターではこんなことは起こらない。
ギターのフレットは、単純に半音ずつ区切られた、純粋なクロマチックの世界である。
だから、Cのキーで演奏していた曲を、ボーカリストが、ちょっときついからB♭に下げてくれないか、などと言い出した場合、ギターは比較的簡単に対応できるけれども、初心者のピアニストにとってはこれは大問題になってしまう。


えー、何を言いたいんだかわからなくなってきました。


だから、その、つまり、西洋の音楽理論というのは、非常に理詰めで、近代的、合理的、科学的なわけです。
て言うか、音楽の世界を、ここまで論理的に詰めたのは近代の西洋人だけですね。
そして、ピアノという楽器は、その西洋の古典的な音楽理論に特化した形で、極めて合理的、図式的に設計されている。
言ってしまえば、我々がピアノの鍵盤と対峙するとき、それは正に西洋の音楽理論そのものと向き合っていると言っても過言ではない。
ピアノというのは、西洋音楽理論のチャート図なのだ。


しかし、何度も繰り返すけれども、音楽の快感の本質が、理性的なものではなく、身体的なものであるとするならば、そうした快感に忠実であろうとすればするほど、ピアノ奏者は、目の前の鍵盤どもが体現する理性の結晶と、自らの身体性の間で、ダブルバインドの状態に置かれることになるのではないか。ということが言いたかった。
うん、そうだ。なかなかうまく言えたじゃないか。


ピアノが上達して、どんどんどんどん上手くなっちゃって、自分の手足のように自在に操れるようになっていくということが、同時に、西洋の音楽理論という合理的な理念の世界にどんどん没入していくことになるという矛盾。
高い身体性を獲得していくにつれて、どんどん理念にからめ取られていくという矛盾。
そこに天才的ピアニストの陥る罠があるのではなかろうか。


20世紀における、ブルース、ジャズ、ロックといったポップミュージックの出現は、クラシカルな音楽理論に収まりきらなかった衝動が、音楽本来の身体性を取り戻そうとした動きだと言える。
例えばブルースで用いられるブルーノート・スケールというのは、伝統的な西洋の音楽理論では、ただのルール違反にしかならない。
そもそも、ブルースには、メジャー・マイナーという二元論が成立しない。
長調短調を区別するのは、3度の音と7度の音(ミ♭かミか、シ♭かシか)であるけれども、ブルースのスケールには、その両方が混在する。
つまり、ブルースは、長調でもなければ短調でもない。


でも、それって、世界観として正しいと思いません?
そもそも世界は、明るい世界と暗い世界にはっきりと2分できるでしょうか?
明るい中にも暗い部分があったり、暗い中にも明るい部分があったりして、嬉しいような、哀しいような、とにかくまあいろいろあるけど頑張っていきましょうというのが人生じゃあーりませんか。
ブルースというのは、メジャーノートを弾きながらもどことなく暗い、マイナーノートを弾きながらも何となく明るい、そういう音楽だ。


ジャズも、R&Bも、ロックも、そのブルースを基盤として成立している。
だから、その根本のところから、西洋の音楽理論とは齟齬が生じている。
こういったタイプの音楽を、ピアノという、古典的音楽理論の権化のような楽器を用いて演奏しようとした人が置かれる状態は、非常に微妙なんじゃなかろうか。


昨日も書いたけども、ブルースというのは、本来、ミ♭とミの間、シ♭とシの間の音を出したい音楽である。
マイルス・デイビスのピッチは、7度の音を吹くとき、メジャー7thとマイナー7thの間でいつも揺れているという話を聞いたことがある。
極限まで熟達したピアニストは、鍵盤を自らの手足のように自在に操れるにもかかわらず、その音だけは、どうやっても出すことが出来ない。
ピアノを使って出来ることは何だって出来るのに、いちばん基本的で、いちばん単純であるはずのことが出来ない。
バド・パウエルとかが精神のバランスを崩したのは、そういったような部分と関係がないわけではないと言えなくもないでのはないかという気がしないわけでもない。
登って登って、登りつめたのに、どうしても出せないフィーリングを求めて、音符の世界の中で迷ってしまったのではなかろうか。(ちょっと作りすぎ、か)


最後に自分で突っ込んでおくと、この仮説の弱いところは、結局、演奏者の内面を、理性と身体という単純な二元論で解釈してしまっているところ、でしょうか。
理性は理性、身体は身体って、単純に分けられるものでもあるまいし。
でも、ピアニスト分析としては、まあまあいいセン行ってると思うんだけど、いかがでしょうか。


その他、倍音ハーモニクスのこととか、まだまだ興味深い話はある
けど、収拾がつかなくなるので、今回はこの辺にしときます。


※参考文献 山下邦彦ビートルズのつくり方』太田出版(絶版)