ピアニストは分裂気質か


そう言うわけで、昨日のコメントの続き。


音楽の気持ちよさは、抽象的で、身体的な気持ちよさだ。
と仮定する。
いや、いろんなご意見はありましょうが、まあ、仮定します。
させてください。


音楽を発生させるにおいて、最も身体的な道具とは何かと言うと、それは肉声だろう。
声。歌。身体そのもの。
世界中のどの民族音楽でも、道具として、まずは人間の声を使ったに違いない。
自分の声を使って音楽を作るのがいちばん気持ちいい。


人間は、その「声」の機能を拡張する装置として楽器を産み出した。
と仮定する。
いや、いろんなご意見はありましょうが、まあ仮定します。
させてください。


そうすると、とりあえず、演奏において、身体性の高いのが健全な楽器、低いのは不健全な楽器、ということが言えるように思う。
つまり、自分の身体のように自由自在に扱えるのが楽器の理想であって、それを目指す際に、ストレスが低ければ低いほど気持ちのよい健全な楽器なわけである。


じゃあ、いろんな楽器がある中で、演奏しているときの開放感がいちばん強いのは何だろうか。
やっぱ、打楽器かな。
なんつっても音階がないからな。(マリンバとかシロフォンとかは取りあえず「打楽器」から除外)
でも、打楽器はちょっと反則だから、この際横においとかないといけないかもしれない。
て言うか、打楽器は音階がないんだから、「声」の拡張というよりは、「手」や「足」の拡張と考えるべきだろう。
その他の楽器とは、基本的に性格が違う。


音楽の三要素は、リズム・メロディー・ハーモニーだと言われるけれども、人間の身体で言うならば、リズムは手足で、メロとハーモニーが声だ。(声にもリズムはあるけど)
ドラマーは基本的にリズムにしか関与しない。
音符地獄にハマる必要がない。
健全だ。
見るからに気持ちよさそうだ。
今度生まれ変わったら、ドラマーになりたい。


ただ、その分ドラムは、シビアな楽器でもある。
大昔、土屋昌巳が、たぶんイカ天の審査員か何かをやってるときに、「リズムの悪い人は諦めた方がいいです。なおりません」みたいなことを言ってて、なるほどなーと感銘を受けたことがある。
メロやハーモニーのセンスは、鍛えれば伸びるけれども、リズム感というのは個々に持って生まれたどうしようもないものがあって、努力で技術は身につけることが出来ても、根本的なセンスは変えようがない、と。


いや、話が逸れました。
音楽の原点は、声で歌って手足でリズムを出すこと、という仮定です。
今回は、「声」だけを問題にしたい。
よって打楽器はとりあえずおいときます。除外。


「声」の拡張装置として、もっとも身体的な楽器は何か。
管楽器だと言われている。
管楽器は最も肉声に近い楽器だ。
一時期、ぼくもサックスを練習してみたことがあるけれども、サックスは、ギターやピアノと違って、ぶーとひと吹き、音を出すだけで、えもいわれぬ快感がある。


我々は普通、西洋の12音階に慣らされてしまっているけれども、本来、人間の声というのは、無段階に調整可能なものであって、実際には音符にならないような音階やリズムを自在に出せる。
管楽器には、そういう人間の性能を活かす余地が十分にある。


例えばトランペットなんかは、見るからに非常に原始的な楽器であって、バルブなんて3つしかない。
指3本しか使わない。
あとは唇の形や息の吹き込み方で音を調整するのであって、逆に言うと、だからこそ非常に難しいわけだけれども、だからこそ、使いこなせば繊細なところまで融通が利く。
要するに、「歌うように」演奏が出来る。
アクセントも自在、音階も無段階に自在だ。
なんつっても人間の息が動力源なんだから、当たり前。
肉声に最も近いと言われる所以である。
サックスなんかはリードが介在するから、もう多少は近代的だけれども、理屈は同じ。


では、弦楽器はどうか。
弦楽器は、やっぱり管に比べると、ちょっとまどろっこしい。
発音するのに「手」が介在するからだろう。
弦の演奏は、管を演奏するよりも身体的な直接性が弱く、もうちょっと間に理性的なものが入り込んでしまうように思う。
その分、めんどくさい。
そして、その分、音を出すことそれ自体の快感が薄い。


ただ、それでも、弦は本来、音階的にはまあまあ融通が利く。
バイオリンやチェロのようにフレットのない弦楽器ならば、音階はもともと無段階だし、ギターのようにフレットがあっても、弦をぐいっとチョークすれば、無段階的に音階を調整したり、音程を揺らしたり(ビブラート)することも可能だ。
そうそう、音を揺らすことができる、というのは重要。
管楽器なら、肉声と同様にピッチが揺れる。


ギターのフレットなんて、もともとは半音階を正確に出すために産み出されたものだろうけど、それに逆らってチョーキングみたいなテクニックが発明されてきたのは、結局、音楽がそのような音階の自在さを本質的に要求しているということだろう。
楽器は、「声」のように自在であるほど気持ちいいからだ。


ちょっと話がまた逸れるけれども、弦楽器豆知識。
弦楽器というのは、もともとは、板っ切れか何かに糸状のものをピンと張り渡して、それを手ではじいてみると、ぼよーんといい音がした、と、どうせそのようなものだろう。
だから、割と世界中どこにでも、固有の弦楽器がある。
で、例えば長さ1mの弦をピンと張って、テンションを調節して、Cの音が出るようにしたとする。
その状態で、2分の1のところ、つまり50cmのポイントを指で押さえてぼよーんと弾くと、オクターブ上の音が出る。
4分の1、25cmのところを押さえると、4度の音(F音)が出る。
なので、だいたい世界中どこの国の音階にも、4度の音はあるらしい。
でも、そのあとのフレットの打ち方は、それぞれの民族に固有の音階があるわけで、決して今の12等分の平均律が全てではない。
従って、固有の音階に慣れ親しんだ民族が、12音階を演奏するために特化された西洋の楽器を持つと、それぞれの文化が干渉しあって齟齬が生じることになる。
あ、話が逸れたつもりだったけど、つながってきたぞ。


つまり、そうした齟齬が生じた場合、管や弦は、(もちろん基本的には12等分の西洋音階を演奏するように作られてはいるものの)、無段階的にピッチを調整することによって、ある程度の悪あがきをすることができる。
典型的な例が、「ブルーノート」というやつだ。
ブルーノートとは、本来、Ⅲ♭やⅦ♭のことではなく、長3度と短3度の間、長7度と短7度の間に位置する、音符では表現できない音である。
そうした微妙なピッチを、管や弦は、なんとか出せる。


ところが、そうした融通の利かない、非常にポピュラーな楽器が1つある。
ピアノだ。
ピアノでは、シとシ♭の中間の音は、どんな名人にも出せない。
管楽器は、初心者だと、音を出すのにまず一苦労するし、弦楽器も、素人と名人の違いは、一音出しただけでわかる。
それに比べてピアノという楽器は、とりあえずキーを叩けば、猫でもきれいな音が出る。
実に複雑で大仰な作りがもたらした、そのような便利さの代償として、ピアノは実に融通が利かない。
そして、ある意味、西洋音階の権化のような楽器である。


えー、やっと肝心のピアノにたどり着きましたが、もう眠くて仕方ないので、続きは次回にします。