RCサクセション研究室その6(?)


突然再開。


清志郎はいろいろな点で天才で、そもそも存在自体が天才だけれども、特に詞が天才なので、清志郎の詞がどんな風に優れているか、ということについて書きます。


例題として、タイマーズのときの「デイ・ドリーム・ビリーバー」を見てみましょう。
歌詞の引用はちょっと恥ずかしいし、JASRACに怒られるかもしれませんが、冒頭のところを少しだけ。


♪もう今は 彼女はどこにもいない
 朝はやく 目覚ましがなっても
 そういつも 彼女とくらしてきたよ
 ケンカしたり 仲直りしたり


先に種明かしをしておくと、コアなファンなら知ってるけども、これは、清志郎が母親の死に材を取って書いた詞です。要は、母親へのレクイエム。
そういうことを知っていれば、なるほど、この詞はまさにそんな風に読めます。
でも、知らなければ、まさかそこまで想像が及ぶ人はなかなかいないでしょう。
フツーのラブソングとして読んでも、この詞は非常によく出来ています。
実に質の高い、失った恋人を想う歌として読めます。


こんなふうに、清志郎の詞は、ごく個人的な体験に基づいた具体的な言葉を使って、具体的なイメージを喚起しながらも、聴き手のイメージを限定しないように、極めて普遍性の高い形にまとめあげられます。
これが典型的な清志郎パターン。
もちろん、清志郎は、意図的にそうしてます。
「色んな人が色んな解釈を出来るように」というようなことは、確かどこかのインタビューでも語ってました。
「タネあかししちゃうとつまらないから、しない」とも。
誰もが自分自身のシチュエーションに照らし合わせて読める(聴ける)ように、個人的な事情が普遍的な表現へと、巧妙に移し替えられているわけです。
このように、あくまでも個人的な体験を、普遍的な言葉に置き換えていく、そういう、簡単そうに見えて実は最も困難な技を、清志郎は徐々に完成させてきました。


清志郎の詞について一般によく言われるのは、固有名詞の多用でしょう。
「国立へ行こうよ」とか「市営グラウンドの駐車場」とか「多摩蘭坂を登り切る手前」とか、そうしたフレーズが、リアリズム云々という文脈で語られることが多いです。
でも、よく味わってもらえばわかるけれども、これらの固有名詞は、むしろ詞の普遍性を強化する方向に機能しているのであって、決して清志郎私小説的な世界を造り出しているわけではありません。
これらのフレーズは、聴き手それぞれ自身の個人的な「国立」や「市営グラウンド」のイメージを喚起します。
自分にとっての「国立」(それは「尼崎」かもしれないし、「八戸」かもしれません)、自分にとっての「市営グラウンド」を想起させられるように出来ているわけです。
固有名詞は、聴き手の意識に深い部分で共鳴するリアリティを与えながら、同時に普遍性を獲得するための小道具として使われているわけです。
これは、表現として理想的な効果であって、こういうことは、マネしようったって、そう滅多に起こりません。
もちろん清志郎は、ちゃんと、意図的にそれをやってるんです。
明らかに、「技」として繰り返し使ってるからです。
「♪きみがーぼくをー知ってるー」だって、恐らく清志郎の個人的な経験や想いがネタになってるはずですけども、だからこそリアルに響くとともに、なおかつ万人に共有できるように出来ているところがすごいわけです。
清志郎のラブソングは、清志郎の個人的な体験であると同時に、聴き手それぞれが、自身の恋愛体験をそこに重ね合わせられるからこそ支持されてきました。


個人的な経験を普遍的な言葉で表現する、と言ってしまえば簡単だけれども、そういう方法を産み出すのは、もちろん並大抵のことではありません。
それを、いとも簡単に、なのか、血のにじむような努力の末に、なのかはわからないけれども、とにかく清志郎は発明しました。
他にもいろいろあるけれども、清志郎の詞が最も優れているのは、特にこの点においてだろうと思います。


つづく。