淀川長治とおばけの話


昔、某商業誌に書いたことある話だけども、また書きます。


確か今はもうなくなったんだと思うけども、その昔、渋谷の公園通りにジァンジァンというライブハウス(小劇場?)があった。
ぼくが学生で東京にいた当時、そのジァンジァンで、おすぎ(とピーコの「おすぎ」)が、ゲストを呼んで映画の話をするトークイベントみたいなのを定期的にやってて、1度だけ見に行ったことがある。


もともとおすぎも好きなんだけれども、目当てはゲストの淀川長治だった。
淀川長治は当時のぼくの人生の師匠であって、著書も読み、テレビに出るときは可能な限りチェックした。
当時はすでに、もういつ死ぬかもわからんっていう雰囲気だったせいか、再評価みたいな動きもあって、露出が多かったように思う。


淀川長治を、ただの変なじいさんだと思っていてはいけない。
あの奇妙なおしゃべり一言一言に潜む深い含蓄と、その裏に渦巻く暗黒の世界を読みとらなければならない。
ナマで見る淀川長治は、まさにテレビでいつも観てるとおりで、それだけでも満足した。
おすぎも、人柄の良さがにじみ出てる感じで、実に好感が持てる。
ジァンジァンに行ったことのある人はわかると思うけども、あそこは非常にこぢんまりとした、落ち着いた雰囲気のハコで、ゆったりくつろいで、しかも2人をごく間近に見られる。


その日のトークは、当時公開されたばかりの映画「フィールド・オブ・ドリームス」についての話で始まった。
おすぎは熱のこもった話っぷりで、「わたしはこの映画を観るために生まれてきたんだと思った」とかいうくらいのベタ誉めで、対する淀川長治は、「確かにいかにもアメリカ的なとてもいい映画だけど、そこまで言うほどじゃない」といったような冷静なトーンで応える。
おすぎを「あなたはまだまだ若いから」といたずらっぽくあしらうのがおかしかった。


フィールド・オブ・ドリームス」は、ケビン・コスナー主演の野球の映画で、その後ぼくもすぐに観て泣いたけれども、野球選手の幽霊が出てくる話だ。
それで、トークはだんだんとおばけの話になっていった。


おすぎが淀川に、「おばけとかってどうです? 信じます? こわいと思う?」といったような質問をする。
すると淀川長治は、例のあの口調で、「ぼくね、昔はおばけ、こわいこわい思てたの。おばけ、こわいなー、出てきたら嫌やなー、って。でもね、もうこれくらい年とってくるとね、おばけ、全然こわないね。会ってみたい。出てきてほしい思うね。だから、おばけ、信じますよ。おばけも幽霊も、みんな信じる」、というようなことを言った。
いや、もちろん、15年以上前の話を思い出しながら書いてるから、全然正確じゃないと思うけど、そのときの感じは強烈に印象に残っている。確か、死んだ母親が幽霊になって出てきてくれないかなあ、とか、そういう話もしていた。
そして、それに続けて言った淀川の言葉が、ぼくは今でもずっと忘れられない。
「あのね、おばけのいる生活はね、おばけのいない生活よりも、豊かなの。おばけなんかいないいない思てるよりもね、おばけ、いるかもしれんなあ思て生きてる方がね、生活が豊かなの。だからぼく、信じてますよ、何でも」


口調のおかしさもあってか、そのとき会場はどっと笑っていたのだけれども、ぼくはひとりでこの一言に心の芯から感動して、ちょっと泣きそうになったほどだった。
笑うとこじゃないよ、ここは、と言いたくて仕方なかった。
「おばけのいる生活は、おばけのいない生活よりも豊かである」
今でもしょっちゅうこの言葉について考える。


どんなものだって、たとえおばけみたいな迷惑なものだって、ないよりもある方が豊かだ。
おばけ、いるかもなあと思って生きてる人は、そんなのいるわけがないと思って生きてる人とは、少しだけ違う世界に生きている。
必ずいると確信してしまうのもどうかと思うけれども、いるのかいないのかよくわからないものは、とりあえず「いるかも」っていうことにしといた方が、何となくいい。
「その方が豊かだから」だ。
たとえ大したものじゃなくても、ちょっとくらい迷惑なものであっても、ないよりはあってよかった、いないよりはいてよかった、と思えることは、たぶん大事だと思う。
その方が豊かでよかった、と思えれば、たいていのことは許せるようになっていくんじゃないかと思う。


帰り際にはおすぎが出口に立って、観客全員一人一人に挨拶をしていて、それもわざとらしくなくて非常に感じがよかった。