善いことをする人々(2)


まだまだ誤解される余地があるようなので、しつこいようだけれども、今日も書きます。


少し前の、とある研修会でのこと。
テーマは環境問題。
NPO団体の女性講師が準備してきたネタは、Tシャツの問題だった。
一言で言うと、ユ○クロなんかで売ってる1枚200円とかのTシャツはものすごく環境負荷が大きいんですよ、あんなもの買わないようにしてくださいよ、と、そういう話。
何でも、綿花栽培というのは、他のどんな農作物よりも多量の農薬を使うらしい。しかも、強制労働や児童労働の問題も絡む。
さらに、縫製や染色などの工程を経るために、地球資源を使いまくりながら世界中を移動して、やっと消費者の手元に届く。
我々が何の気なしに手に取っているこのTシャツ1枚が、いかに環境に負荷を与えているか、今度ユ○クロに行ったら、少し立ち止まって考えてくださいよ、と。


なるほど。それは知らなかった。勉強になる。
しかし、何だかやたらと腹が立つ。
何故だろう。
わかった、この講師の女の口調だ。
「んー、そうなんだよねー、ほんとは簡単なことなんだよねー、環境保護って。身近なところにいっぱいあるんですよー」
参加者はいい年した大人ばっかりで、当の講師よりも年上がほとんどなのに、まるで幼児を相手にしているようなこの物言いはなんだ。
まるで理由になってないが、こういうしゃべり方をする奴は、もうそれだけでだいたいダメだ。


と思ってムカムカしながら聞いてたら、ついに我慢ならない発言が。
人はいくらでも身近なところから環境保護を始められるのにそれをしない、という話の中で、
「私も今日は、いけないなあと思いながらも、ついついマイカーで高速道路を飛ばしてきてしまいましたー」
などと、何食わぬ顔でおっしゃっておられる。
この瞬間、ぼくの頭の中で何かがプチンと切れた。
堪忍袋の緒だろう。
それって、頭の中にあんのかな。
いや、昨日に引き続いての車ネタですいません。


「いけないなあと思いながらも、ついついマイカーで高速道路を飛ばしてきて」しまう人間が、200円のユ○クロの代わりに3000円のオーガニックコットンを買え、なんて、どの面下げて言えるのか。
こういう場に出てきてこういう話をするからには、たとえウソでもいいから、「今日はもちろん電車と徒歩で来ました」「割り箸なんて使ったことありません」「歯磨きするときに水を出しっぱなしにするなんて信じられません」と言っておかなくてはならないはずだ。
「今日はついつい……」なんていう発言が、なんの衒いもなく出てくるということは、結局、「私は忙しいんだから、高速飛ばしてもまあやむなし」「あなたたち下民は、ちゃんと目を覚ましてオーガニックコットンを買いなさい」って思ってるんだ。
あの、幼児を相手にしているような口調に、それが端的に現れている。
「私が教えてあげるから、ちゃんということ聞きなさい」って。
この人は、「うちは生活が苦しいからユ○クロでしか服は買わないけど、自家用車なんて持ってもいませんよ」っていう人がいくらでもいるということに、思いを巡らせることはないんだろうか。
そういう人と自分を比べて、どっちが偉いとか考えたりしないんだろうか。
それとも、Tシャツの製造工程に詳しいというだけで、あんなに優越感たっぷりのトークを展開しているのだろうか。


くれぐれも繰り返しますけども、「善いこと」をするのがいけないんじゃない。だって「善いこと」なんだから。「善いこと」はどんどんしてください。
「善いこと」を振りかざすのがよくないんです。
「善いこと」は、善いことであるだけに、誰にも文句を言わせない力がありますから、振りかざすと、大変迷惑な暴力になります。


2日も続けて人の悪口を書いたので、なんかげんなりしてきたな。
「善いこと」をしている「いい人」についても書いておきます。


別の研修会で、別の女性講師が言ってた話。
以前、講演を終えた後の質疑応答で、参加者のひとりが、「自分は職場で国際貢献のために一所懸命に頑張ろうとしているのに、職場の人は誰も協力してくれません。どうしたらいいですか」というような質問をしたらしい。
それに対して、この女性講師は、バカなこと言ってるんじゃない。人の協力なんか求めるもんじゃない。自分ひとりでやる覚悟がないならやめた方がいい。黙ってひとりでやって、それが認められれば、人は自然についてきます、と言ったそうだ。
この話を聞いて、ぼくは、この人はえらい人だと思った。
こういうことを言う人は、信頼してもいいと思う。
この人は、「善いこと」を振りかざすことの胡散臭さをちゃんと知っている。
そして、その上で、それでもなお、精力的に「善いこと」をしている。
堂々と「善いこと」をするにあたっての覚悟とマナーが、ちゃんと身についている。
これは偉い。見習いたい。
逆に、この質問をした人みたいなのがどんどん調子に乗ると、Tシャツの講師みたいな人間になっていくに違いない。
あ、また悪口書いちったな。


また別の話。
高校時代の同級生のNさんは、医学部を卒業して内科医になったけれども、すぐにやめて、国境なき医師団に入り、ずっと海外で医療活動をしてきた。
アフガニスタンの難民を治療してた時期もあったから、テロのときは一躍時の人になってしまい、テレビにも出たらしい。
そのNさんと、先日、恐らく20年ぶりくらいに会う機会があった。
もともとどういう人なのかは知ってるから安心してたけれども、やっぱりNさんは立派な人だった。
ビールをがぶがぶ飲みながら、国境なき医師団に参加することになった経緯や、現地での活動などの話をいくら聞いても、一貫して、「いやいや、まともな仕事もせずにこんなことばっかりやっててほんとごめんなさい」っていうトーンである。
恐らくは、援助活動を、「趣味」くらいに思っている。
昨日、「善いことをするときは、よほど申し訳なさそうにやってもらいたい」と書いた。
もちろん大仰に書いているのだけれども、Nさんの場合はほんとに自然に申し訳なさそうにやっている。
「この人は天然のいい人だ」と思いました。


誤解のないようにしつこく書きますけども、カンボジアストリートチルドレンの実情を見たら居ても立ってもいられなくなった、とか、熱帯雨林の伐採現場で衝撃を受けた、とか、そういう「善意」自体を非難する気はさらさらないです。
て言うか、そういうのを目の当たりにして何も感じないとしたら、それは人間じゃないでしょ。当たり前です。
実際に行動を起こすことも必要なんだろうと思います。
Tシャツの話だって、話自体は勉強になりました。
そういう意味で、啓蒙も必要なのはもちろんわかってます。
(ただ、この辺はメディア・リテラシーの問題も大きいとは思うな。特に「環境問題」に関しては……)


でも、「善いこと」には、誰にも文句を言わせない力があります。
前にも書いたような気がするので、控えめにしますけども、「他人が反論できないような議論」をふっかけるのは、いけないことだと思います。
「環境を守れ」とか「貧しい人を助けろ」とかいう正義を振りかざしている人に対して、真っ当な反論が出来る人は稀です。
「環境は守るな」とか「貧しい人は放っておけ」なんて、普通言えません。
80年代、吉本隆明が、反「反核」ということを言い出したとき、吉本は袋だたきにあいました。
もちろん、吉本は、「反核」そのものに反対してたんじゃなくて、「反核」論者の安易さ・陳腐さを批判してたわけですが、通じなかったようです。難しいからな、吉本の文章。


ヒトラー政権下では、「ゲルマン民族のため」って言ったら、誰も何も文句言えませんでした。
戦中の日本では、「御国のため」という「正義」に刃向かうことなど許されませんでした。
反論を許さない議論というのは、気持ちが悪いんです。
今になったら当たり前ですけども、当時は、「ゲルマン民族」も「神国日本」も、「環境保護」や「難民救済」と同じように、歴然と「正義」だったんでしょ。
だから、お題目は変わっても、それを振りかざせば、そこに生じる抑圧構造は同じだと思うんです。


小学校や中学校なんかの、道徳の時間や、人権学習、平和学習なんかが嫌いでした。
「人権を大切に」とか、「平和を守ろう」とか、その内容自体には、反論する余地はないです。
「人権」や「平和」が嫌いなんじゃなくて、(いや、ほんとは「人権」に関してはいろいろあるけども)、それを「わかってるのに押しつけられる」のが嫌なんですな。
平和学習してて、「うるせえよ、戦争のがいいよ」などという反発の仕方をする生徒はまずいません。「うるせえよ、その話、もう何回も聞いたよ」としか言えないですね。


いつの間にか「です・ます」になってますな。
要は、「人が反論できないのをいいことに、平気で正義を振りかざしていい気になってる奴が嫌い」というだけのことです。
それは、非常にタチの悪い抑圧構造を創り出すからです。


長くなってすいません。
ほんとはまだまだ言い足りないんですが、風邪ひいたのでもう寝ます。