善いことをする人々


昔から、「善いこと」をする人々が何となく苦手で、そういう人たちと関わるのが好きではなかった。
その、何となくしっくりこない感じが、かつては自分でもうまく説明できなかったのだけれども、しばらく前に吉本隆明を読んでからは、曖昧ながらも割と言語化できるようになった。
「善いこと」をするときは、よほど申し訳なさそうに、謙虚な姿勢で、十分に周りに配慮してやってもらいたい。
できれば、「善いこと」は、なるべく人目につかないように、こっそりと、わからないようにやってもらいたいし、自分でもそうすべきだと思っている。


仕事柄、「善いこと」をしている人々と接することが多い。
国際貢献の人、環境保護の人、ボランティアやNPOの人……等々。
中には本当に尊敬できるような人ももちろんいるけれども、ほとんどは、できればどうにもお付き合いしたくないようなタイプの人々で、閉口する。
こういう乱暴な言い方をしてはいけないとは思うけれども、やはりそういう人々には共通した傾向みたいなのがあって、たいていは生真面目で、紳士的で、弁が立ち、行動力があって、そして、極めて独善的で無神経である。
いや、紳士的、と書いたけれども、実際には、こういうタイプは、女性の方が多い気もする。


彼(女)らがやっていることを否定するつもりはない(ほんとはしたいけど)。
何せ「善いこと」をやってるわけですから。
ただ、何をやるにも、マナーというものがある。
彼(女)らのやり方の多くは、すくなくともぼくを不愉快極まりない気分にさせる。


数年前、同じ職場に、環境問題に熱心な人がいた。仮にHさんとします。
初冬のある日、居室でみんなが石油ストーブをつけていたところ、Hさんが入ってきて、「これくらいの気温でもうストーブつけてるんですか。もっと厚着をすればいいじゃないですか」と大きな声で言う。
資源の節約、環境保護のためには、我々はもっと日常から我慢すべきだ、というのだ。
ちなみに彼は、外食時にも塗り箸を持ち歩き、割り箸は使わない。


Hさんは、ぼくよりもずっと年上だけれども、普段からいじられ系のキャラなので(それがせめてもの救い)、そういうことを言い出しても特に場の雰囲気を気まずくすることはなく、みんなすぐ口々に、からかうような口調で反論する。
「そんなこと言うけど、Hさん、あなたマイカー通勤でしょ。環境によくないですよ。どうして電車で来ないんですか」
「そうですよ、しかもあなた、先月、よりによってディーゼルエンジンの新車を買ってたじゃないですか」
Hさんは、普段から、人の行動にケチをつけて回ってるのだけれども、キャンプが趣味で、大きなワンボックスのワゴン車に乗っている。しかもディーゼル車を新調したばかりだった。
みんなそのことを知っているので、Hさんに何か言われたときは、必ずその話で切り返すことになっている。
しかし、当のHさんは、単にからかわれてるだけだとでも思っているのか、いつも、笑いながらではあるけれども、100%自分に正義があるんだという姿勢を崩さない。
「いや、私だって駅の近くに住んでれば電車で通いたいですよ。でも、私みたいに田舎に住んでる者が電車で通うのはほんとに大変なんですよ。それは仕方ないじゃないですか」などと、悪びれる様子もない。


みんなにからかわれるキャラだったから、Hさんの場合はまだいくぶんマシだったけれども、それでも、このことを思い出すたびに、やっぱり今でも何となく腹が立ってくる。


「田舎に住んでて駅が遠いからマイカー通勤はやむなし」という具合に、自分の最低限の利便性だけはしっかり確保した上で、自分が容易に放棄できる利便性(割り箸、ストーブなど)については、他人の行動にまで厳しく口を出す、なんていう行動がずるいに決まってるのは、小学生にでもわかる理屈だと思うがどうか。
自分の矛盾に気づいていないならまだしも、Hさんは、毎日のように、「あんたのディーゼル車はどうなんだ」とからかわれている。
その辺がHさんの中でどのように処理されているのか、ぼくにはまるで理解できない。
極端な話、「すごい冷え性だからストーブだけはちょっと寒いだけでもつけたいんだけども、マイカー通勤はほんとに環境負荷が大きいと思うから、毎日駅まで30分歩いて電車で通ってます」っていう人がいる可能性だってある。
そういうことに思いを巡らせる想像力はないのだろうか。
そう反論されたら、どう答えるんだろうか。


いや、仮に「おれ、ストーブがんがん焚いて薄着してんのが好きなんだよね」っていうだけだったとしても、「田舎に住んでるから」「キャンプが好きだから」「燃費がいいから」という理由でディーゼル車を新しく買ったHさんが何の後ろめたさも感じずにそれを攻められる
気分が、ぼくにはよくわからない。


もちろん、啓蒙も大事だろう。
Hさんが「ストーブ消しなさい」と言ったことによって、何らかの「気づき」を与えられた人もいるかもしれない。
また、いくら自分がディーゼル車に乗ってると言っても、だからと言って環境保護活動をする資格を奪われるのはおかしい、自分に出来ることからやっていけばいいのだ、などと言う人もいるだろう。(て言うか、そう言う人がすごく多い。「身近なことから」「できることから」って)


もちろんそのとおりだと思う。
ディーゼル車に乗ってストーブもつけるよりは、ディーゼル車には乗ってるけどストーブは消してる方が、「地球にやさしい」んだろう。
でも、くどいようだけれども、ぼくには、自分の利便性だけはしっかり確保しながら他人の利便性を平気で糾弾する、という無神経さが、地球環境云々以前に、マナーとして、気分悪くて仕方がない。
「私のディーゼル車通勤は、地理的条件等を勘案した結果、免除されるべきだ」という免罪符を、あらかじめ自分で自分に与えてしまっている身勝手さが、どうしても理解できない。
ストーブを消すなら、職場のではなく、家のストーブだけをこっそり消してほしい。
外食時にマイ塗り箸を持ち出すときは、「あんたたち、割り箸なんか使ってちゃダメですよ」ではなく、「へへへ、私、どうも割り箸は勿体なくて使えないんですよ、すいませんね」って感じにしてほしい。(そういう人は好きだ)


Hさんのような人は、特殊な人だと思っていた。
実際、ちょっと変わった人だった。
でも、世の中には、同じようなことをやっている、もっとタチの悪い人がたくさんいるんだということがだんだんわかってきた。
そういう人々と付き合うのは、ほんとにストレスになる。


いや、しかし、万一同僚にでも読まれたら、ものすごく気まずいな、これ(笑)。