ファーストネームで呼び合う人々(2)


一昨日のファーストネーム問題で、予想外にたくさんのコメントをいただきましたので、引き続き。


やっぱり、冷静に考え直してみても、小学生はよくわかりませんが、高校生あたりが、同性間・異性間を問わず、互いをファーストネームで呼び合う傾向というのは、昔に比べて強いんじゃないかと思います。
それは、血縁や共同体への帰属意識の希薄化とか、個人主義の浸透とか、そういうことで説明しようとするとおもしろくないけれども、まあそういうこともあるだろうな、とは思いますです。
今のような社会の在りようがどんどん煮詰まっていけばいくほど、そういう傾向は強くなるんだろうな、と。
で、それ以外に何か言えるとしたら、まあ、妙な衒いや恥じらいのなさと言いますか、あまりにカラッとした、(我々から見ると)過度にオープンな人付き合いの在り方と言いますか、直截的にはそういうことの反映なんだろうという気もします。
担任教師に、「○○と別れた」とか「△△と付き合った」とか、1mmほどの照れもなく、聞いてもいないのに報告に来るような、そういう心性と、それは同根なんだろうと思うわけです。(もちろん一方で、過剰にセンシティブだったりもするわけですが)
そういうのって、なんか楽しそうな気もするけど、ロマンチシズムの発生する余地がまるでないと言うか、結論的にはまるで羨ましくない感じがするのは、やはりジェネレーション・ギャップなんでしょうか。
この辺、社会学のテーマとしても、どう? 「ファーストネームで呼び合う若者たち」とか。(→ ushiro)


以下、個別にレスします。


→チンさん
小石川の高校生の話、東京は20年先を行っていた、と(笑)。そういう感じじゃないです? 今だったら、全国的にあり得る光景だと思うんですが、どうでしょう。結構そんな感じだと思いますよ、いまどきは。
「大ちゃんパパ」「信ちゃんママ」に関しては、以前にも話したことがありますよね。「大ちゃんのパパ」「信ちゃんのママ」なら、まあ可である、と(笑)。
ていうことは、これは、日本語のセンスの問題?
「大ちゃんパパ」は「デヴィ夫人」と同じく、非論理的で、日本語として妙だ、と。そういうことでしょうか。
個人的には、「信ちゃんパパ」なぞと呼ばれたことが(たぶん)ないので、いまひとつ実感がないですが、確かに他所の親にそんな呼ばれ方するのはちょっとワケがわからんすね。
「大ちゃんパパ」っちゅうのは、「大ちゃんのパパ」が縮約されてんのか、それとも「デヴィ夫人」的な誤用なのか、その辺の気分がよくわかりませんが、いずれにせよセンスに欠けるところが腹立たしいのではないでしょうか。


→きょうたん
Dog Park って?
屋号の話は強烈ですな(笑)。「屋号」なんて、(ぼくは両親とも山村出身だからわかるけど)、我々世代でも通用しないのでは?(笑)
かつての地域共同体が見直される昨今、この際、生涯「庄右衛の2番目の子」で通していただきたいです。
て言うか、もうお互い一応いい大人なんだから、「きょうたん」っていう自称もどうかと思います。