RCサクセション研究室その2


前回書きましたとおり、70年代の清志郎の曲作りは、良くも悪くも非常に手が込んでいる。
詞もメロも、おそらくじっくり時間をかけて作っている。


それが、80年前後、ストーンズをサンプルにした本格的なロック・バンド形式に生まれ変わった時点での意図的な単純化を経て、さらに晩年には、どんどんシンプルな曲作りへと傾いていく。
こういうパターンをたどる人は、まあ別に珍しくはないと思われます。


たとえば、現在の奥田民生なんかもそういうパターンになってる気がするんだけど、どうでしょう。
民生の曲作りのピーク、と言うか、少なくとも手の込んだ曲作りをやってた時期と言うのは、やはりユニコーン後期〜ソロ初期にかけてのあたりだろう。
この時期の民生はちょっとした神懸かりで、数年の間に「雪の降る町」「すばらしい日々」「息子」「愛する人よ」などなど、日本のポップ史に残る名曲をぽこぽこ作った。いずれも独自のコード進行やメロディの展開が玄人をもうならせる曲だ。
それが、ここ数年に来て、ずいぶんと平易な(と言っても未だずいぶんとヒネリは効いてるけど)曲が目立つようになった。
本人がインタビューでもしゃべってたけど、ややこしいコード・プログレッションを避けるようになった理由は、どうやら「演奏するのがめんどくさい」ということらしい。
これは、単に民生がめんどくさがりだからというわけではなくて、要するに、聴く側の論理よりも演奏する側の論理を優先するようになった、或いは言い方を換えるならば、民生が演奏者としてのミュージシャンシップに目覚めた、ということだろうと思われる。


世の中には、たとえばジャズやフュージョンのように複雑であるが故に演奏するのが楽しい音楽と、逆にブルースやロックンロールのように変に複雑だとかえって演奏の喜びが奪われてしまう音楽とがある。
また、別の分類をするならば、ロックにだってスタジオワークでもって丁寧に作り込むのに適した曲と、ライブ向きの曲とがある。
民生は、「ライブで演奏しやすい曲」「演奏してて楽しい曲」へと曲作りのベクトルをシフトしてきている。これはたぶん、ソロ以降、徐々に自分のバンドがバンドとしてまとまってきて、バンドとして演奏することの楽しさの優先順位が上がってきたということだと思う。


気持ちはわかる。
アルバムを1つの芸術作品ととらえるタイプと、あくまでもライブの素材集だと考えるタイプは、昔からある。
「すばらしい日々」をライブでやるのは、きわめてめんどくさそうだしリスキーだ。楽しめそうにない。
でも、聴く側としては、やっぱり「マシマロ」みたいのよりも「すばらしい日々」みたいな曲の方が楽しい。


民生が長くなってしまいました。


清志郎の作風が変わったのは、また別の事情があると思われる。
大きな転機は2回ある。たぶん。


1回目は、最初に書いたとおり、70年代末、フォーク編成からバンド形式に劇的に変化したとき。
一説によるとこの劇的変身は、石井さん(奥さん)との結婚を向こうの親に反対されて、とにかくこれは売れなきゃ話にならんと決意した結果であるとのことだが、たぶんそれは本当だと思っている。
売れるためにはわかりにくいことやってちゃダメで、派手なカッコして派手なステージアクションで目立って、わかりやすい曲をやらなきゃいかんっちゅうことで、意図的、戦略的にやっていると思う。
結果、それが大成功するわけだけれども、それはやはりそれまでの清志郎の曲作りの蓄積・醸成があったからこそだ。
なんつってもこの時点ですでにデビュー10年近い。
その間に清志郎の曲作り、特に詞のスタイルは、孤高の水準に達している。


単純な曲しか作れない人が作った単純な曲と、ほんとはいろいろできる人が作った単純な曲とでは、やはり質が違う。
清志郎は、決して「雨上がりの夜空に」や「どかどかうるさいR&Rバンド」を一朝一夕に作ったわけではない。
(ただし、この時期のRCは、パクリも多い。元ネタは、60年代のソウル〜R&Bであることが多いと思われます)


話がそれた。
何の話だっけ。
そう、バンド以降の清志郎の曲作り。あ、別にそれてないのか、話。
もう眠くてわからなくなってきた。


で、バンド以降、清志郎はどんどんロック・スタイルの名曲を生み出すわけです。
曲の作りは、単純にはなったけれども、むしろどんどん洗練されていく。メロもキャッチーになっていく。詞はもはや名人芸に達する。
おもしろいコード、奇妙な進行を探して遊んでいた「シングルマン」の頃とは違って、当たり前のコードで、正当派、王道のヒット曲を生産するようになる。
それで80年代、RCはキングになりました。
個人的には、RCと言えば「BLUE」から「HEART ACE」まで。ここが最盛期。ライブ盤は「THE TEARS OF a CLOWN」を最高傑作とします。


その作風が2度目の転機を迎えたのは、「COVERS」〜タイマーズのあたりだ。
この頃から清志郎は社会問題や時事ネタを積極的に扱うようになり、前回にも書いたとおり、それこそ1日に何曲もっていうペースで、日々のネタを次々と曲にして、次々とレパートリーにし、ライブでやったりレコードにしたりという、ゲリラ的な活動に楽しみを見出していく。
そのためには、曲は単純でなければならないし、また、こういうことをやるには、RCというバンドはあまりにビッグになりすぎていた。RCの他のメンバーには、どう考えてもそんな機動力はない(笑)。


言い方を換えるなら、清志郎は、自分自身の次の展開として、プロとしてバンドで活動することの持つ社会性におもしろさを見出していった。
そう、あくまでも「おもしろさ」であって、意味とか意義とかいうレベルでないのが、清志郎のよさだ(笑)。
原発ネタであろうが何であろうが、単に人騒がせしておもしろがってるっていうレベルにとどまってるのがせめてもの救い。
音楽そのものではなく、音楽がもたらす事件性みたいな方向へ関心がシフトしていると思われる。


画家なんかでも、年とるとだんだん色使いとかもシンプルになってって、1つの作品に時間かけなくなったりするじゃん……とか何とか、この時期の清志郎本人がしゃべってた記憶があるけれども、「COVERS」以降の清志郎の変化もまた、明らかに意図的なものであって、どんどん作って片っ端から演奏して、すきあらば全てレコードにする、みたいなことになっていく。


正直、このあたりから、個人的には興味が薄れていった。
今でも「COVERS」以降の作品はまず聴くことがない。
タイマーズはおもしろかったし、ことライブに関しては最高だったけれども、今聴き直しておもしろいものは少ない。


逆に、同時期のチャボは、どんどん曲作りの技術を高めて、それこそしっかり作り込んだいい曲をどんどん発表するようになっていく。
RCの解散(活動休止?)は、必然的なものだった。
あのメンバーでタイマーズをやるのは不可能だったからだ。