学校週休2日制と総合的な学習の時間(5)


小中学校のことはよく知らないけれども、伝え聞くところによると、中学校なんかはかなりすごいことになってきているらしい。
週休2日になったけれども、小中は、カリキュラムも縮小されてるから、少なくとも生徒にとってはほんとに「ゆとり教育」になっているのかもしれない。


進学校に入学してくる高校生の話を聞いていると、受験対策としては、もはや中学校はまるで機能していないように思える。
学校で行われる定期考査は、平均点が軒並み80点とか90点で、要するに誰にでも解けるような簡単な問題ばかり。授業の内容も薄く、進度も大変にゆっくりなので、成績上位層にとっては物足りないことこの上なく、まるで勉強にならない。学級崩壊みたいなのも多いし、学校の授業は全く役に立たないので、受験対策は専ら塾か家でやった。というような話をよく聞く。
塾に通わなきゃ進学校への受験対策ができないということは、それなりの意識のある家庭に生まれなければダメで、公教育だけに任せていては、将来は覚束ないということなのだろう。斎藤貴男の言っているとおり、まさに「ゆとり教育」の本質はエリート教育なのかもしれない。


さらに、中学校には、絶対評価がかなり本格的に導入されている。
絶対評価というのは、観点別に一定の到達規準を設定して、その達成度で評価を行う。絶対規準をクリアしてるかしてないかが問題だから、極端な話、クラス全員が完璧に達成してたら、全員が「5」をもらえる。
で、その「観点別」っちゅうのが曲者で、中でもよく話題にされるのが「関心・意欲」というやつ。生徒一人一人の「関心」や「意欲」を、通常A・B・Cの3段階で「客観的に」評価するわけだけれども、客観的に関心や意欲を評価する、しかも、40人とか80人とか120人とかを1人の教員が平等・公正に評価する、なんていうことができっこないのは、誰でも少し考えればわかるだろう。
その結果、授業中に自発的に何回挙手をしたら何点、なんちゅうことが大真面目に行われているらしい。そうでもしなけりゃ、週に3時間程度、英語や数学を教えてるだけで、担当している全てのクラスの生徒一人一人全員の「関心」や「意欲」なんて掌握できるはずがないからだ。仮に5クラス担当しているとしたら、200人。顔と名前が一致する頃には1年経っている。「客観的に」やるには、挙手の回数でもチェックするしかない。
しかも、評価方法は生徒や保護者に対してオープンにするのが基本だから、生徒の方は当然、打算的になる。先生の質問がわかろうがわかるまいが、とにかく手ぇ挙げときゃいいんだろ、おれ今週中にあと2回挙げとかなきゃ、とか、実際にそういうことになってるらしい。
また、教員が評価作業に取られる手間は、半端ではない。
今までだったら、テストの平均点出して、あとはせいぜい提出物のチェックするくらいで成績を出していただろうに、今や、毎時間毎時間が評価の場なのだから、その作業の繁雑さは並大抵ではないだろう。恐らく、既に「評価のための授業」に陥っているんじゃないだろうか。


高校にも影響はある。
高校入試の願書に添えられる、いわゆる内申書は、合否判定の大きな材料になる。しかし、絶対評価になってから、やたらとオール5の生徒が増えた。
しかも、中学校によって、やたらと「5」を乱発する学校もあれば、出し渋る学校もある。このへんは、既に新聞でも大きく取り上げられて問題視されているけれども、実際に非常に理不尽なものを感じる。もはや、内申書と学力の相関関係は、まるでないと言ってもいいくらいだ。


そんなわけで、今日は話が逸れてしまったけれども、そうやって、少なくとも学習面では非常に「ゆとり」のある3年間を過ごした生徒が、進学校に入学するやいなや、いきなり大変に濃密な日々を与えられることになる。
関係代名詞も完了時制も知らない子が、2年9ヶ月後には、仮定法も分詞構文も、全てを使いこなさなければならない。数学も、理科も、社会も、すべてがその調子。もはやエリートになろうと思ったら、この時点で手遅れなのかもしれない。
本当に、そういう狙いの元に作られたカリキュラムなんでしょうか。