甲野善紀『古武術に学ぶ身体操法』を読む


甲野善紀が好きだ。読み始めると、夢中で読んでしまう。
こういうのを眉唾だと思う人も多かろうが、ぼくは全面的に信用したい。甲野善紀の言うような身体の操法は、本を読んだだけではとても身につくようなものではないと思うけれども、説明は論理的で説得力がある。文章は決して上手くないけれども、真摯な姿勢はよく伝わる。
昔の武術の達人に関するマンガ的な逸話(軽く触れただけで大男がふっとんだ、といった類いの)なんかも、甲野善紀の本を読んでいると、なるほどあり得るのかもしれないと思えてくる。


今やブームになった「ナンバ」という歩き方も、本を読むたびに、日々考えながら歩いていたら、なんとなくこんな感じなのかなという気分になれる程度にまではわかりかけてきた。
右手と右脚、左手と左脚を同時に出す、ということよりも、捻らずうねらず、そして、和服を着ているつもりになって、着崩れしないようにするつもりで歩いてみる方が、感触がつかみやすいような気がする。そうやっていると、自然と背筋が伸びてくる。
傍目に見て格好のいいものではないと思うけど。


かつての日本に、アンビリーバブルな超絶技を持った達人がいた、というのも、きっとそうなんだろうと思う。
少なくとも、現代人よりは身体感覚が鋭敏だった、と言うか、自分の身体感覚にじっくりと対峙してその操法を探求する環境が、現代よりも遙かにあったはずだからだ。
テレビもラジオもない、と言うか、そもそも娯楽自体がほとんどない、つまり集中力を阻害する要素が少ない、しかも時間に追われて仕事することもない(こないだの「反社会学講座」によると、武士は1日3〜4時間の勤務とか書いてあったと思う。もう図書館に返したから確認できないけど)、周囲には自然がたっぷりある、そういう環境で「日本刀による攻撃への対応」としての自身の身体の操り方を、日々驚異的な集中力で探求し続ける才能ある人間がいれば、現代人には想像を絶するような動きを身につけていたということは十分にあると思う。
スケートの清水が「筋肉と対話する」みたいな言い方をするけれども、あれも要は常人には感知できないような自身の身体に対する感覚や意識を、訓練によって発達させたものなんだろうと思うし、イチローなんかも、恐らくは何か特別な身体感覚を意識の上で明確に持ってコントロールできるように修練してきたんじゃないかと思う。
古傷の疼きで低気圧の接近を知る、みたいなことは常人にもよくある話で、そういう感覚が今でも残っているんだから、より自然との一体感が強かったであろう昔の環境で、そうした身体の感覚を徹底的に鋭敏化しコントロールすることを集中的に鍛錬すれば、一部の才覚ある人間は、わけのわからない境地に達したかもしれない。


それで思い出したけれども、ずいぶん前に読んだ養老孟司の本で、キノコ採りの名人の話というのがあった(気がする)。なんでも「キノコ目」という言葉があるそうで、キノコ採り名人は、視覚でも嗅覚でもなく、その場の気配とか佇まいで、第六感的にキノコの存在を察知するとかそんな話だったと思う。チョウチョは無軌道にふらふら飛んでるように見えるけれども、あれは秩序がちゃんとあるんだそうで、飛んできたルートを正確になぞって戻ったりできるんだそうだ。チョウチョにもそんなことができるんだから、人間にも本来はそうした超自然的(と現代では思えるような)感覚があってしかるべきだ、とか何とか。(全然記憶違いかもしれません)


何の話を書いているのかわからなくなってきたけれども、要するに、甲野善紀の本を読んでいると、人はもっと自分の身体に意識を向けるべきなんじゃないかと考えるようになってきた。知性ばかりが優先される世の中だけれども、何て言うか、もっと知的な身体とでも言うか、いや、身体的知性とでも言うか、少なくとも自分の身体感覚に意識的であるということが必要だという気がする。
野口整体野口晴哉とかも、きっと天才的にそうした身体に対する知覚が鋭敏だったんじゃないだろうか。