伊藤和夫


今日は磯崎兄さんへの(公開)私信です。


兄さんへ。
ずいぶん遅くなってしまいましたが、送って頂いた論文の感想を、やっと書きます。
非常に興味深い内容でした。伊藤和夫って、こういうノリの人だったんですね。
田舎で、しかも浪人経験もせずにすんだぼくとしましては、あまりピンとこない感じだったんですけど、雰囲気が非常によくわかりました。18や19のときにこういう人の授業を直接受けたというのは、やっぱり影響大きいんだろうなあ、と。


で、「分析や方法についての自覚を持たない者」「論理や体系性についての自覚を持たない者」を仮想敵とする、という姿勢は、個人的には非常に共感できますし、語学の学習態度としてはそれが正しいとも思います。私人として、と言うか、いち学習者としては、100%それでOKだと思います。
が、現場の人間としましては、これはやはり駿台のような特殊な場所でしか通用しないのではないかという気もするわけです。ぶっちゃけて言ってしまえば、これは、かなり上位層の受験生にのみ通用する切り口であって、高校生全般に通用するわけでは決してないと思うわけです。
もっと言うと、伊藤和夫の論理は、正しすぎるくらい正しいのだけれども、それをそのまま理解できる高校生は、結局のところほんの一握りしかいないだろう、と。


例えばこの入不二基義氏の論文に、伊藤和夫が批判する3タイプの予備校講師として、「1.抽象的な理屈ばかりを言って学生をケムに巻く者」「2.学校文法から逸脱した文法用語等を詐術として使う者」「3.英文の一字一句を過度に意識化して、教授法の幼稚化を行う者」というのが出ています。
それはなるほどそのとおりで、確かにどれもいけ好かない。1や2なんていかにも予備校にはうじゃうじゃいそうな感じで、想像しただけで気分悪いですけれども、3のタイプについては、ちょっと同情的な部分もあるわけです。
理念としては、伊藤和夫のような論理と体系性でもって理解させたいのはやまやまです。しかし、それが通用しないとなると、徐々にハードルを下げて、最終的にはかなりの「幼稚化」を行わざるをえない局面というのが、我々には日常的にあります。
伊藤和夫が幸福だったのは、そうしたことを考えなくてもすむ環境で仕事できたことなのではないでしょうか。
no more than 〜 がなぜ only と同様の「〜しか」の意になるのか。ぼくはとりあえず論理でもって説明を試みます。やはり丸暗記は避けたい。何故それが「少なさ」を強調する表現になるのか、理屈でもって理解した上で体に馴染ませてもらいたい。でも、その理屈が生徒にとってはあまりに煩雑で、1度や2度の説明では到底伝わらない。そうなると、結局は、「今の説明がわからなければ、no more than = only と丸暗記してください」という話にしてしまわざるをえないわけです。
分詞構文には「時」「原因・理由」「条件」「譲歩」「付帯状況」の5つの意味がある、と一般には言いますが、それは本来間違いでして、ネイティブにとっては、分詞の使い方など、大まかな1種しかないはずです。しかし、それを高校生にもわかる論理で説明するのは極めて困難なのであって、それどころか、「時」「原因・理由」云々すらなかなか伝わらないわけです。そうなったらもう、「〜しながら」「〜なので」「〜だけれども」……などと、それこそ「幼稚」な解説を持ち出さざるを得なくなります。


ましてや、昨今は、伊藤和夫の時代に比べると、受験生の英語力は格段に低下しています。もはや「英文解釈教室」を読んですらすら理解できる高校生など、それこそ東大京大クラスの、全体から見ればほんの一握りのエリート層だけなのではないでしょうか。


ぼくの関心は、伊藤和夫が、受験生ではなく、中3や高1向けの学習書を書いたらどうなったか、というところです。
論理や体系性のファーストステップとして、どのような切り口が可能なのか。現在問うべきなのは、そこなのではないかと思うわけです。
英語初心者が、反復や丸暗記ではなく、論理で英語を習得する方法に馴染んでいくにはどうすればいいのか。
逆に言いますと、この論文を読んで、そういった領域はまだまだ開発の余地のある、未開拓の分野ではないかと思いました。今後のテーマとして、考えていきたいと思っています。