いじめについて(2)


20日のつづき)


世界から戦争がなくならない理由は、倫理や道徳の水準で議論しても見えてこない。「もめ事が起こったら相手をぶちのめしてしまうのがいい」とか、「ややこしいこと言うやつはぶっ殺すのが正しい」という風な考えを持った、倫理的・道徳的に問題のある戦争主義者が世界中にたくさんいて、そういう連中が戦争を引き起こしている、のでは、たぶん、ない。戦争が、非倫理、非道徳であるということを理解していない人間は、おそらく、そうめったにはいないだろうと思う。
しかし、それでも世界に戦争が絶えないのは、それなりに避けることのできない事情があるからである。
純粋に倫理や道徳のレベルでは、人殺しはよくない、戦争はいけないということが十分にわかっていても、社会の構造が戦争という手段を取らせる。原因が政治であれ経済であれ思想であれ宗教であれ、その解決手段として、戦争を選択させるのは、倫理や道徳ではなく、社会システムのあり方である。
もっと言うと、悪いのはわかってるんだけど手っ取り早いからやっちゃう、とか、儲かるからやっちゃう、とか、得するからやっちゃう、とか、または、いけないとわかっていてもやらざるを得ない、とか、そういう複雑なことになっちゃってる状況で、「戦争は非人道的ですよ」なんていう倫理や道徳の説諭は、ほとんど功を奏さないだろうということだ。


学校におけるいじめの問題は、おそらくこうした状況と相似形をなす。
いじめがよくないということを、倫理や道徳のレベルで理解していない生徒は、まずほとんどいない。
悪いとわかっててもやっちゃう、あるいは、自分のやっていることがいじめだとは気づかずにやっちゃう、といったようなことがいじめの実像であるとするなら、道徳教育はほぼ無効だろう。それは、子ども社会の構造自体が、不可避的にいじめの状況を生み出してしまうということだからだ。


また、話は戻るけれども、前々日までの話の流れに沿って言うならば、集団全体の中での自分の行動の位置づけを行うマッピング能力の欠如、といったような言い方もできるのかもしれない。
今の子ども達が、「あいつムカつくから」「性格が悪いから」といったような理由で自己のいじめ行為を正当化し得るのだとしたら、そこに欠けているのは、道徳ではなく、自身を客観的、俯瞰的にとらえる視点、ではないのか。自分では正義のつもり、当たり前の行動のつもりでも、他人から見ればそれが「いじめ」であり、自分が悪役を演じてしまっているということが、見えていないのではないか。「自分がムカつく=いじめてよし」という短絡は、視野狭窄としか言いようがない。(そういうタイプの人間を、我々はよく知っている。どこかの大国の大統領だ) また同様に、作文では「いじめはよくない」とか書くような子どもが、同時に「あいつをからかうと面白いから」といったような理由で、加害者になっていたりするのではないんだろうか。


もちろん、倫理や道徳の教育そのものを完全に否定するつもりはない。と言うか、それだけの見識はぼくにはない。(例の「心のノート」とか、現実の実施方法については大いに疑問があるけれども……)
しかし、かと言って、道徳教育の執拗な反復だけでいじめに対応できるとはとても思えない。それは、ほんとは誰もがうすうす感じているんじゃないんだろうか。わかっているけど、他にどうしようもないからやってるだけなんじゃないんだろうか。


アメリカは「世界の警察」などではなく、「世界のいじめっ子」にしかぼくには見えない。そのいじめっ子にくっついて弱いものいじめに加担している日本のシステムの中で育った子どもが、保身のために「いじめる側」にくっついておこうとするのは、ある意味、当たり前なんじゃないかと思う。
そもそも、「他人のことなど知ったことではない」という風潮は、何も学校の中に限ったことではない。そうした荒んだ空気は、むしろ学校の外の方に充満している。