いじめについて


昨日、学校は社会の縮図、学校の世界は社会と相似形をなす、というようなことを書いてて、思いついた。
いじめの問題は、まさにその典型だと思う。


「いじめは、子供の社会の中に構造的に組み込まれちゃってるから、倫理や道徳を説いたところでなくなるものじゃない」というようなことを、ずいぶん前の『SIGHT』の吉本隆明インタビューの中で、吉本本人だったかインタビュアーの渋谷陽一だったか、どっちかが言ってて、非常に納得した。
いじめに関しては、残念ながら、この悲観的な展望が最も正しいように思われる。


高校でも、人権学習と称していじめ問題を取り上げることはよくある。先日も、外部から講師を呼んできて90分程度の講演を聴き、感想文を書く、というイベントがあった。
進学校の生徒は真面目だから、そういうことをやらせると、たいていの生徒はお利口な模範解答のような文章を書く。感想文は匿名だから、「いじめられる方が悪いんだよ」みたいな偽悪的なものもありそうなもんだけれども、まず見あたらない。まあそれは、かえって事態の深刻さを表しているのかもしれないけれども。
気になるのは、やたらと「私も昔……」みたいな、自身のいじめ体験を綴るものが多いこと。それと、「いじめは絶対にいけない」「今日の講演を聴いて認識を新たにした」「これからは勇気を持って……」的な模範解答のような文章の中にも、「それでもいじめはなくならないと思う」といった悲観的な結論で終わるものが非常に目立つことである。
やはり、実感として、我々の時代に比べて、いじめの状況は相当に悪化しているし、絶望的に修復不能なレベルにまで事態が進んでいるように思える。


常々、いじめの問題は、戦争の比喩が最もわかりやすく、正確なんじゃないかと思っている。
子供社会におけるいじめは、大人の社会における戦争と同じで、必要悪、と言ってしまっていいのかどうかわからないけれども、とにかく倫理や道徳の啓発でどうにかできるようなレベルの問題ではなくなっているように思うのだ。


……と、ここまで書いて、眠くてどうしようもなくなってきたので、続きはまた次回にします。