学力低下(5)


では、なぜ近頃の若い衆にはマッピング能力が欠けているのか。
なにも、近頃になって急に若者の頭が悪くなった、というわけではないだろう。


自分の位置が見えない、自分に何が見えていて何が見えていないのかが見えていない、という症状は、全体を一望に俯瞰する視点の欠如が原因であるからして、それができないということは、要するに、かつてに比べて、「全体」が捉えにくい状況になった、もしくは、捉える必要がなくなった、ということだろう。
もはや、共有すべき「全体」が社会に存在しない、あるいは、共有しなくても個人として差し支えない。そういうレベルまで社会が複雑化、高度化したということだと思う。


こういう難しい問題に本格的に言及しようとすると、きっとボロが出るに決まっているのでやめておくけれども、社会が共有する大きな物語性の喪失、といったような意味合いでは大塚英志の言う「物語消費」という考え方が説得力あると思うし、また、それを受けて情報のデータベース化みたいなことを言った東浩紀の「ポストモダン動物化」などという考え方も、面白いと思う(東浩紀は嫌いだけど)。


いずれにせよ、若い衆が「全体」を見失っているのだとしたら、それは、若い衆だけの問題ではなく、社会全体が「全体」を見失っているということに違いない。子供は、そうした社会の状況を、端的に、先鋭的に表現しているだけだろう。
電車の中でバカでかい声で話す高校生は、一昔前、同様の傍若無人な振る舞いでオバタリアンなどと呼ばれたおばさん達の娘や息子に違いない。おばさん達がおじさん達よりも一足先に「全体」を見失ったのは、家の中で育児や家事に追われていたからかもしれない。今ではもう、社会に出て働いているおじさん達にも、「全体」を見通すのはなかなかに難しい。そういう大人に育てられたのが、近頃の若い衆なのではないだろうか。
学校は社会の縮図だ、とよく言われる。経験的にも、それは非常にうまい言い方だと実感している。子供の醜さは大人の醜さを、学校の荒廃は社会の荒廃を、端的に反映しているのだろうと思う。