学力低下(4)


(前回のつづき)


中山文科相学力低下の問題について、「一言でいうと勉強しなくなったということだ」と言ったのは、まあ客観的な事実としては当たっている。
実際、近頃の高校生を見ていると、かつてに比べてほんとに勉強しなくなった。特に、ここ5〜6年くらいの傾向は顕著である。まあ、昔のぼくを知る人からすれば、お前が言うなって感じでしょうけれども。


現場では、「受験生としての自覚が足りない」「切迫感がない」といったような表現がよく使われる。要は、すごーくお気楽な感じに見える。
一昔前なら、進学校では、少なくとも高校3年生の春にもなれば、生徒は受験体勢に入った。それまで遊んでばかりいて、とっくの昔に国公立大学を断念したような生徒でも、3年の春には、1年後の自分を想像して、何らかのアクションを起こした。(もちろん、いつの時代にも例外はいるけれども。)
それが近頃では、春どころか、夏になっても緊迫した感じになってこない。予備校の職員とかに話を聞いても、やはり全く同じ事を言う。このお気楽さは一体何だ、と。


ただ、実際に一人一人の生徒にあたってみると、受験のことをまるで気にしていない、などということは決してない。むしろ、過剰に意識して、無駄に神経質になっているような印象が強い。受験生であるという自覚そのものは、相当にあるのだ。
しかし、それにもかかわらず、一方では、受験のシステムをいまだにちゃんと理解してなかったり、受験までのプランが全く立ってなかったり、その結果全然勉強してなかったりする。だから、パッと見はすごく「お気楽」に見える。
要するに、段取りが非常に悪い。


そこで、マッピング能力の話。
自分の位置をマッピングする能力というのは、時間軸上で考えるならば、過去の自分を省み、1年先、2年先の目標を想定して、現時点における目標までの進捗状況と、今後のスケジュールを計算する能力、つまり、段取り能力であると言える。目指す目標まで、あとどのくらいの距離があり、その距離を縮めていくのにどれくらいの作業、どのくらいの時間を要するのかを読み取って、スケジューリングしていく能力。
近頃の受験生に欠けているのは、「受験生としての自覚」などではなく、そうした段取り力、スケジューリング能力なのではないかという気がする。
自分の位置が見えていないから、一方では非常にお気楽な振舞いになり、また一方では過度に不安になる。自分の一歩先がパラダイスなのか暗闇なのか、よくわからないままに、とにかく進まなければいけないということだけを自覚しているのではないのだろうか。
不登校の生徒にはいろんなパターンがあるけれども、進学校でよく見られるパターンのひとつには、過度の完璧主義があるように思える。日々与えられる課題や試験に完璧に対応していかないと納得できず、突然パンクしてしまうパターン。周囲から見れば、1回や2回赤点とったくらい、長い目で見れば全く何でもないのだけれども、本人にとってはそれが許せない。課題や試験対策がきちんとできている日は登校できるけれども、そうでないと休んでしまい、それが次第に常態化していく。これも、結局は、自分の位置が客観的に見えていない、一歩先がわからないから、この程度の失敗なら後でいくらでも取り返しがきくということが判断できていないということではないのだろうか。


もちろん、そうした「マッピング能力の欠如」だけが原因ではないだろう。
例えば、全般的に、受験生に上昇志向がなくなっているような傾向も、強く感じる。石にかじりついてでも東大、みたいな雰囲気は、かつてほどはない。高学歴に対する執着は、明らかに弱まっている。そこそこのレベルの大学に入れればいいから、そんな無理はしたくない。別に東京に出て行きたいとも思わない、親元でのんびり過ごしたい。そういうタイプの生徒が、驚くほど多い。(もちろん、それ自体は必ずしも悪いことでは全然ないけど)
これまでの学習の動機付けが学歴社会にしかなかった以上、学歴に対する信頼性が揺らげば、必然的に学習意欲が低下するのは当たり前だ。ここにも明らかに原因の一部はあると思われる。


いや、そう考えると、高学歴・高収入っていうゴールが安易に想定できないからこそ、現在の位置がマッピングできないのか。ゴールの設定なしには、現在地を測定する基準がないんだから。


いずれにせよ、昨今の学力低下は、カリキュラムやゆとり教育だけに問題があるわけでは決してない。それはもっと大きな流れの中にある問題であって、カリキュラムを昔のようなものに戻せば学力が戻るわけでもあるまい。


うーん、このネタ、続けようと思ったらいつまでも続くな……。