K−1を観る


ボクシングや柔道や相撲など、格闘技はだいたい何でも好きなんだけれども、K−1だのPRIDEだのといった最近の総合格闘技みたいなやつは、以前からどうも好きになれない。今日、テレビで久しぶりにK−1を観たけれども、やっぱりこういうのはいかがなものかと思った。


スポーツというのは、ある程度、観る側にも熟練を要すると言うか、細かい機微までを鑑賞し尽くそうと思ったら、やはりその競技に対する一定レベルの知識と理解が必要である。野球観戦にしたって、どうにかルールを知っているという程度の人間よりも、ベンチの投手起用や配球パターンを読みながら観てる人間の方が、百倍楽しんでいるに決まっている。つまり、スポーツは観る側にも一定の努力が要る。
でも、K−1くらい何でもありの大味な競技になってしまうと、なんちゅうか、とにかくぶっ倒せばいい、みたいな話になってしまって、機微もへったくれもない感じになっている。初期の頃にくらべれば、それでもまだ「スポーツ」っぽくなった印象はあったけれども、やはり他の格闘技に比べれば、圧倒的に「繊細さ」に欠ける。あれだけいろんな攻撃がOKだと、そりゃいろんなタイプの選手やいろんなパターンの攻め方が出てきて派手にはなるだろうけれども、そのぶんとっちらかる。
要は、単純で、観る側の努力が要らない、深みのない競技だ。他の格闘技に比べて女性ファンが多いような気がするのも、わかりやすくてとっつきやすいからだろう。ま、それがいいことなのか悪いことなのかはよくわからないけれども、なーんかちょっと安易な方向に流れすぎてはいないかと思う。


よく、世界最強の格闘技は何か?みたいなことが言われるけれども、もちろんそういう問いにはまるで意味がない。ボクシングに近いルールでやればボクシングが、レスリングに近いルールでやればレスリングが強いに決まっている。殴っても蹴ってもいいけど土俵から出たら負けっていうルールだったら、曙が最強だろう。
かと言って、ルールによる制約がまるでなかったら、それはもはや競技ではなくて、ただのきちがい沙汰である。あらゆる競技には「設定」があるのであって、人間は「設定」なしで、つまり、理由なしで殺し合いが出来るようなものではない。