英語と私(3)


高校生というのはただの1人の例外もなくバカな生き物だということをぼくはよく知っているけれども、ぼく自身の高校時代は更に筋金入りのバカだったので、将来はミュージシャンか絵描きか、それがダメならマンガ家になろうと考えていた。少なくとも、高2くらいまでは真剣にそう思っていた。
そのためには、勉強が出来てはいけない。下手に数学なんかも出来たりすると、地元の国立大学とかに入れられる恐れがあるからだ。それは困る。最低限、東京には行かなければならない。
そこでぼくは、バカなりに利口な作戦を立てて、勉強を一切放棄することに決めた。美術部に入って、芸術系の進学を目指すことにした。「この成績ではまともな大学にはどこにも入れない」と言われるくらいまで落ちておけば、親も教師も諦めるだろうと思ったのだ。
数学や化学なんかは特に、意図的に授業を聞かないように努力した。中学までは、成績はずっとトップクラスだったので、下手に聞いていると出来てしまう恐れがある。周囲はぼくを完全に学校の落ちこぼれ集団の一部と見なしていたが、その陰にはこういう努力があったのだ。なんかものすごく嫌味な文章を書いている気がするが、ほんとにそうなのだ。


しかし、この作戦は実に中途半端な結果に終わった。
英語を捨てきれなかったからだ。
やはり英語は当時の自分にとって重要なアイデンティティの一部だったのだと思う。英語だけは、理解していないとプライドが収まらない。完了時制だの仮定法だの、新しい文法が出てくるたびに、完全に理解していかないと気が済まない。
リーダーやグラマーの教科書をまともに勉強したことは一度もなかったし、授業の予習復習をしたこともなかったけれども、文法書と辞書は常に携帯して、人の何倍も熟読したと思う。教科書の英文くらいは、ちょっと見ればたいていはすぐ読めた。
おかげで、さすがに授業の内容ばかりが出題される定期考査ではそれほど大したことはなかったけれども、模試なんかでは、英語だけは常に上位をキープし続けた。


何のために文法書や辞書を持ち歩くかというと、洋楽の詞を解読するのである。数学の時間も、国語の時間も、ほとんどずっと英語の辞書を出して、ああでもないこうでもないと考えていた。そうでなければ、マンガ描いたり落書きしたりしてた。
何せ、詞の英語というのは、難しい。当然ながらスラングも多いし、省略や倒置なども頻繁だ。今でもよくわからないものはたくさんある。
考えてみればそれは当たり前で、例えば日本語だって、桑田佳祐の書く詞の意味など、日本人にだってなんだかよくわからないものがたくさんある。洋楽も同じで、ネイティブが読んだって意味のわからない詞はいくらでもあるのだ。そして、あとで気づいたのだけれども、ぼくが高校時代に解読しようとしていた詞の多くは、よりによってその最たる類のものだった。ネイティブにもわからないようなヘンテコな英語を、習ったばかりの学習文法と学習用辞書だけで、何とか解読しようとしていたのだ。敢えて言うなら、その辺に気づいてないところがバカと言えばバカだ。


しかし、今考えると、これは非常に効果的な学習だったのかもしれない。
通常、英語の勉強というと、一般的に「まずは単語力」みたいな考え方があるようで、「そもそも単語を知らなければどうすることも出来ない」といった言い方をよく耳にするけれども、ぼくはそうは思わない。もちろん、最低限の単語力は必要であるし、たくさん知っていれば知っているに越したことはない。しかし、高校英語からは、単語力よりもまず文法力だと思う。
単語なんて、わからなけりゃ辞書ひけばいい。辞書が引けなくても、文法力がしっかりしていれば、多少の知らない単語は類推できる。実際、ぼくは大学入学後、周りの人々に、あまりに単語を知らないのであきれられたことがある。それでもちゃんと入試をクリアしている。
例えば、「○○が××で△△に□□を◇◇した」という分全体の構造が正確につかめていれば、そのうちの「△△」や「□□」の意味がわからなくても、おおよそ全体の文意はなんとかなる。むしろ、個々の単語は全部知っていても、それらパーツがどう繋がって全体を構成しているのかがわからなければ、その方が致命的な読み取りミスを起こしやすい。
だから、英語の学習で重要なのは、単語をたくさん調べて片っ端から覚えるといったようなことではない(もちろんそれも大事なんだけど)。それだけではダメなのだ。
英語を勉強していると、辞書で全て単語を調べたのに、それでも何を言っているのかわからない文というのが必ず出てくる。そういった文を、自分で徹底的に追求するのが重要なのだ。
辞書使ってもわからないのは、文法的な解釈を間違っているのか、文の構造のとらえ方が違うのか、それとも、辞書で調べてわかったつもりでいる単語のいずれかにまだ自分の知らない他の語法や慣用的な意味なんかがあるのか……。そういったことを片っ端から検証して、自分にその文がなぜ読めないのか、いちいち理由を追及して理解していく。英語的なセンスを養うには、そういう地道な作業が不可欠である。


歌詞の解読は、まさにそういう作業の連続だった。
単語なんかは、とっくに辞書で全部ひいている。それなのに何言ってんのかわからない。make とか take とかいったような基本的な単語にも疑いを持って、何度も何度も辞書を引き、自分の知らない用法や意味があるんじゃないかと用例を探しまくる。そうやっているうちに膨大な数の例文を目にすることになり、make や take という語が本来表す正確なイメージが、知らず知らず徐々に身についていく。
また、文の構造をあれこれとらえ直してみたりもする。ここまでが主語だと思っていたが、実はここまでなんじゃないか、とか、この不定詞は実はこっちを修飾してるんじゃないか、とか、そういうことをあれこれ考える。
それともこれは自分がまだ知らない文法なのではないかと疑って、文法書を検索したりもする。
そうやっているうちに、どんどん英語の感覚が体に馴染んでくる。


単語の意味を辞書で調べたり、熟語を丸暗記したりなんていうのは、ただの作業であって、たいして頭は使っていない。英語的な感覚は、単語や熟語の勉強では身につかない。
その点、詞の解読は、常に英語的な感覚と戦い続ける作業である。ネイティブの発想を何とか消化しようとする努力の連続である。教科書読むよりもうんといい。


そして何より、歌詞は音と共にある。なんだかんだ言って、それがいちばん効果的だったのかもしれない。
斉藤孝の「声に出して読みたい日本語」なんていうのもあるように、暗誦は、言語の学習において、その言語の「ノリ」をつかむのに、極めて有効である。あの斉藤孝というヒトは、たまにテレビで見かけたりするとヘドが出そうになるくらい嫌いだけれども、暗誦自体はとてもいいことだ。
歌詞は、もともと歌おうとして読み始めるわけだから、そもそも暗誦が先である。だから、歌詞で覚えた単語は、決して忘れない。そして、重要なのは、暗誦によって言語のリズムが身につくこと、さらには、意味を考えながら暗誦することによって、英語的な感覚が極めて効果的に養われることである。


かくして、ぼくは知らず知らず、日々、非常に有効な英語学習に、自発的に、大変な熱意を持って取り組んでいたわけだ。あの時期の経験が、現在の大きなベースになっているように思う。