名称と実存の乖離について


ソシュール以降、シニフィアン(表現)とシニフィエ(意味)の対応が恣意的であるというのは、もはや常識以前である。例えば、日本語では「いぬ」と呼ぶ動物を、英語では「dog」、フランス語では「chien」という。つまり、犬という生き物と、「inu」という音は本来何の関係もなく、それぞれの言語によって、意味と音の関係は全く恣意的である、と。
しかし、果たして本当にそうだろうか。
ぼくには、あの犬という動物の様態と、「いぬ」という音の間には、非常に必然的なイメージの連関があるように思えてならない。ましてや、猫という生き物なんか、どう見ても「ねこ」って感じがする。「なんか、あれ、『ネコ』って感じだよねー」「そうねー、『ネコ』っぽいねー」といった具合に猫は「ねこ」になったのではないか。
例えば、ラッキョウ。絶妙のネーミングだと感じられる。あの味も形状も、正に「らっきょう」の一語で全て表現され尽くされている。
例えば、牛蒡。あのゴリゴリした食感と無骨な形状に相応しい名前として、「ごぼう」以上のものを思い当たらない。
音と実存は、決して恣意的にではなく、避けがたいある種の必然によって結びついているのではないのか。


しかし、それとは逆に、これは明らかに名称と実態が乖離しているのではないかと思われるものも散見される。
思いついたものを少し列挙してみよう。


ピロシキ
あのロシア産の油っこい食い物に、この名は奇妙である。どこかで何か行き違いがあったに違いない。「ピロシキ」という音は、どう考えても、寝具っぽい。寒い冬の夜はピロシキにくるまって眠る……そんな感じが正しい。


「サドル」
ペダル、ハンドルと来て、「サドル」って言われると、どうしても回転系パーツでなければ収まらない気がする。「サドル」の「ドル」の部分は、明らかに回転運動を暗示している。確かにサドルも、回そうと思えば回るが、常態として回っているわけではない。逆に言うと、サドルは、敢えて回してみることによってようやく「サドル」らしさを発揮できる。メンテナンス的にも、サドルはときどきくるくる回してやるのがよいのではないかと思う。


「hippopotamus」
カバを英語で「hippopotamus(ヒポポタマス)」という、と聞いたとき、誰もが必ず「それはおかしい」と思うはずだ。あののっぺりした生き物は、「かば」でこそあれ、「ひぽぽたます」であるはずがない。「ひぽぽ」の部分が特にいけない。ヒポポタマス、それは古代ギリシャの賢人の名。ヒポポタマス、それは大西洋の深海に生息する原始生物の学術名。ヒポポタマス、それはニューギニアの未開部族が冬至の夜に祈りを捧げる精霊の名前。