善人なおもて往生をとぐ


今日は職場で人権問題の学習会があった。こういうのが嫌で嫌でたまらない。講師の話を聞いていると、だんだん腹が立ってくる。人権学習だの平和学習だのは、昔から嫌いだった。
が、しかし、それはぼくが反人権論者であるとか戦争主義者であるとかいう意味では、もちろん、ない。人権は擁護されるべきだし、戦争は決して起こってほしくない。


そうした、ほとんど自明と言っていいほどに「正しいこと」を、人前で、堂々と、説教を垂れるように語れる人間の口調や、その場の空気が嫌なのだ。
これはぼくだけが変わっているのではないと思う。みんなほんとはああいうの、嫌なはずだ。面倒だと思ってるはずだ。そう思ってても、誰も言わない(言えない)だけに違いない。


自明的に「正しい」ことを、無闇に人に力説してはいけない。
「人権は大切です。守りましょう」と強く主張する人間に対して、「いや、人権なんて無視すればいい」と反論するのは難しい。「戦争はやめましょう」と力説する人間に、「いやいや、もめ事は武力で解決するのが手っ取り早い」と反論できる人間は、普通はいない。人が反論できないような自明の正義を振りかざすと、その正義は結果的に暴走する。
一部の環境保護団体や動物愛護団体が、ほとんど過激派のような組織になっている例は、誰もがよく知っているはずだ。彼らには、「環境なんて守らなくていい」とか「動物なんか殺してしまえ」とかいう、組織の根本理念を否定するような反論に合う恐れが、ほとんどない。万人にとってほぼ自明の正義だから、理念に揺らぎがない。だから、相手に反論の余地のない議論をふっかけて、周りを薙ぎ倒していく怪物になる。それは、ずるい。
戦前の日本では、「御国のため」「天皇陛下のため」と言えば、反論の余地はなかった。ナチス政権下では、反ユダヤ主義ゲルマン民族至上主義が自明の正義だった。
もちろん、それらと環境保護や動物愛護をいっしょにする気はないけれども、その抑圧構造は同じではないのか。水戸黄門の印籠のように、それを振りかざせば誰もが黙り込んでしまう。そうした構造自体が問題なのだ。人権や平和が嫌いなのではない。その正義っぷりに抑圧されるのが嫌なのだ。


80年代、吉本隆明は、中野孝次らの反核運動を「停滞」という表現で一刀両断にした(そして集中砲火も浴びた)。近年は、「善いことというのは、よほど人目につかないように、こっそりとやらないといけない」といったようなことをよく言っている。この表現は、いささか詩的で、すぐに真意が伝わりにくいけれども、結局は自明の「正義」が作り出す抑圧的な構造に言及している。のだと思う(たぶん)。