『吉本隆明のメディアを疑え』を読む

吉本隆明が好きだ。
特に、90年代後半以降の著作がいい。それ以前の作品は、読んでも意味が分からないことがほとんどだからである(笑)。

最近の吉本隆明は、意図的に、これまでの自身の思想を極力平易な言葉に置き換えようとしている。本人がどこかのインタビューだか著作だかでそういうようなことを言ってた。以前読んでよくわからなかったことが、この近年の「平易な言い換え」で、ああそういうことを言ってたのか、と納得できたことが非常ぉぉに多い。それでようやく吉本隆明の深さ、鋭さ、明晰さがわかってきた。

ここ数年は、すっかり目が悪くなってしまっているようで、著述が困難なためか、語り下ろしの作品が増えた。正直、安易な企画の安っぽい本がどんどん出てる印象もある。今日読んだのも、実にお安い。内容も他とかなり重複していたりする。が、それでもやっぱり面白い。この人の言うことは一言も聞き漏らすまい、という気分になる。語り下ろしだと、自ずと言葉も平易になるから、それがまたよい(今日の本は語り下ろしじゃないけど)。


しかし、平易な言葉で語る吉本隆明には、危険性もあるように思う。
もともと言葉遣いが独特だから(それがかっこいいんだろうけれども)、平易な言葉で語っても、依然わかりにくかったり、或いは、ひどい誤解を招きそうな言い方になったりする。
平易な言葉で語れるようなものではない複雑な思考の過程を、敢えて平易な言葉で語ろうとしているから、自然と表現が象徴的、詩的になることがある。また、本来はそれぞれ分厚い本まるまる1冊かけて著述した、恐ろしく込み入った概念の数々を、数時間のインタビューで語り下ろしたりするわけだろうから、そこには結局はエッセンスしかない。恐らくそれを額面どおりに受け取ってはダメで、その表現の奥行きを感じ取らなければいけない。
それがなされずに誤解につながっているケースも多いのではないか。


近頃は、やれ親バカだの、ボケ老人だのといった言われ方をしているのをよく見かけるが、ぼくはそうは思わない。
確かに、今日読んだ『吉本隆明の……』も、思わず首をひねらずにはいられない箇所はいくつかある。佐高信なんかが吉本をボロクソに言ったりしたことがあったけれども、おそらくそれはこういうところを指して言ってるんだろうなあ、とか。
でも、違うのだ。
そりゃあ年も年なんだから、分野によっては無理があるのは当たり前だろう。80近い老人に『エヴァンゲリオン』とか見せたって、そこで行われていることを正確に捉えるのは難しいに決まっている。
しかし、それでも吉本隆明は正しいと思える。

なんちゅうか、もはや現在の吉本隆明は、極めて偉大な「おじいちゃんの知恵」として読むべきではないかと思う。千に一つの無駄もない、みたいな。
だから、この21世紀の文化や政治、経済に対する吉本の情況認識に、仮に老人的なズレがあったとしても、それはもう80なんだから大目に見なきゃいかんと思う。それは折り込んで読まなきゃダメだ。戦中から戦後の混乱期を経て、半世紀以上に渡って考え続けてきた吉本隆明の思想の過程のその先に、今のこの言い方があるということを感じ取らなければ、吉本の魅力も正しさも分からないと思うのだ。
吉本隆明の思想は、決して古くさくもないし、いまだにボケてもいない。と思う。また、それほどラジカルであるとも思わない。1人の思想家として、実に真っ当すぎるくらい真っ当に一貫した歴史を積み重ねてきているように思う。その流れを感じなきゃいけないのだ。吉本は戦争を体験している。だからこそ、今のこの考え方、言い方がある。それは古いとか新しいとかの問題ではない。多くのことを経験しているからこそ、違ったものが視野に入るというだけのことだろう。おじいちゃんを邪険にしてはいけない。我々の知らないことを、きっとたくさん知っているのだ。


……って、読んでもよく意味分からないくせに、偉そうに書いてしまった(笑)。
でも、正直な感想です。ほんとにそう思う。


初めて吉本隆明を読んだのは、たぶん高3のときだった。1人で学校をさぼって、遠くに海の見える公園のベンチで、ひなたぼっこしながら『共同幻想論』を読んでいたのを、今でも何故かよく覚えている。我ながら、いやーな高校生だな、しかし。
気持ちのいい季節だったから、春か秋だろう。高3の秋だとすると、受験が押し迫っていたはずだけど、秋にはまだ切迫感がなかったから、あり得る。
読むには読んだが、意味は全然わからなかった。それでも最後まで一応読んだのは、よほどヒマだったのか、バカだったのか。とにかく、若いから気力があったんだと思う。
もっと大人になってから、今読めばわかるかもしれないと思って再挑戦したけど、やっぱりわからなかった。いまだにときどきもう一度頑張ってみようかという気分になることもあるけど、やっぱもう一生無理なんじゃないかという気もしている。