社会の成熟と子どもの成熟


前回のコメントの続き。


社会が成熟すると人は成熟する必要がなくなる、というような言い方を吉本隆明がしていて、どういう意味合いで言っているのか、全部はわかりかねるけれども、さすがに詩人らしい趣のある言い方だと思う。


昔は、若者に文化なんてなかった。
音楽でも映画でもファッションでも文学でも、若者がそういったものを牽引するようになったのは、日本ではおそらくせいぜい60年代以降のはずだ。
それ以前、文化というのは大人のものであって、子どもが「(狭い意味での)文化」を享受しようと思ったら、それは必然的に早熟であることを要求された。
昔の人はみな早熟だ。
二十歳頃にはみなちゃんと大人になった。
芥川龍之介が「羅生門」を書いたのは、20代前半だ。


我々が高校生くらいの頃、一世代、二世代上の大人は、我々世代を評して「最近の高校生はほんとにガキだ」というようなことをよく言った。
実際そうだったのだと思う。
しかし、今、40近くになって、今どきの高校生を見ると、我々の目から見ても、まるで小学生のように幼く見える。
まだまだ世の中はどんどん幼児化している。
経済的にも政治的にも文化的にも、それだけ社会の成熟が進んでいるということだと思う。良くも悪くも。


政治的にも経済的にも文化的にも、それらに対する飢餓感が強ければ強いほど、人は自然と早熟になる。
逆に、満たされていればいるほど、外側へ向かおうとするモチベーションは低下する。
それは致し方ない。
必ずしもそれが悪いとは言えない。


たとえば100年前の子どもがやることと言ったら、家の手伝いや勉強でもさせられるか、外で走り回って遊ぶくらいのことしかなかったはずだ。
それ以上の、何かおもしろそうなもの、意味のあるもの、価値のあるものは全部大人に占有されていた。
そして、大人が占有している「文化」に触れようと思ったら、それを理解するだけの早熟性が要求されたのだと思う。


我々の世代の子どもの頃には、既に「子どもの文化」みたいなものが発生していた。
アニメオタクの第1世代は、我々よりもまだもう少し上の年代だ。
子どもには子ども向けに作られた文化が用意され、そこで十分に満足できるのであれば、もはや無理してまで別の場所をのぞいてみる必要はない。
少なくとも退屈するまではそこにいればいい。
子どもにそんな居心地のいい場を与えておきながら、同時にガキだガキだと大人が言うのはアンフェアだ。


しかし、今の状況からすれば、昭和40年代や50年代は、それでもまだまだのんびりしたものだったと思える。
今どきの子ども文化は、半端でなく複雑怪奇に成熟している。
技術革新の影響も当然大きい。
ポケモンひとつとっても、アニメ、映画、マンガ、ゲーム、オモチャ、パンや駄菓子のオマケについてるシールやカード等々、メディアミックスが行きつくところまで行ってる感じで、とてもじゃないけど子どもにその全容はフォローしきれない。
小2の息子がポケモンに夢中になっているのを見ても、あまりに幼くて情けなくなってくるが、実際には中学生や高校生になっても抜けられないヤツは多いらしい。
うちの息子が言うには、先日、学校の帰りに何人かの友だちとポケモンの話をしながら歩いていたら、どうも自分だけ話の内容が理解できない。どういうわけかと思ったら、みんなはゲームボーイポケモンについて語り合っていたのだという。自分だけがゲームボーイもDSも持っていないから、話しについて行けないのだそうだ。
そうやって親の同情をかおうという作戦である。
その手に乗らないのは言うまでもないけれども、かくもポケモンワールドは多岐にわたる。
同じポケモンでも、3歳児向けのポケモンもあれば、中学生向けのポケモンもあるんだ、きっと。


しばらく前、近所のオモチャ屋に入ったら、何やら奥の方に子ども達が集まってワイワイ騒いでいる。
のぞいてみると、遊戯王だかデュエルモンスターズだか何だかしらないけれども、そういうカードゲームの大会が開かれていて、テーブルの上で何組かが対戦している様子。
びっくりしたのは、小学生だけでなく、上は高校生か、下手すりゃ二十歳くらいなんじゃないのかと思えるような奴らまで、いっしょになって競技(?)に参加していたことだ。
そんなにおもしろいのか、遊戯王


そう、もはや「子どもの文化」は成熟しすぎた。おもしろすぎるのだと思う。
ちょっと背伸びして「大人の文化」をのぞいてみようなどという気になるはずもない。
子どもは子どもの文化を咀嚼するのに精一杯なんじゃないかと思う。
子ども文化も、もはや情報戦だ。
情報を制した者が子ども文化を制する。
それは、いったんハマれば容易に退屈することのない奥深い世界になってしまっている。


同僚の25歳のオーストラリア人は、彼氏がポケモン好きなので困る、と言っていた。
ムシキングカードも、ラブ&ベリーも、必死になっているのは、むしろ親だ。
遊戯王のルールだって、ちょっと見たくらいでは全然理解できない。絵柄が気持ち悪いから見たくもないけど、きっとゲームとしてはすごくおもしろいんだと思う。


子どもやってれば十分楽しいのに、誰が無理して大人になろうとするか。
子どもにまでもかくも奥深い「文化」を与えてしまうほどに社会が成熟したのだから、人はもう成熟へと向かおうとする契機をあらかじめ奪われている。
いつの間にかみんなが「子どもはいいなあ」とばかり言うようになって、「大人はいいよなあ」とスネる子どもは少なくなった。


世の中の暮らしが貧困であれば、誰もが経済をよくする方法を考える。
政治体制に激しい問題があれば、政治について学ばざるを得ない。
身の回りに満足のいく文化がなければ、文化を発展させようと努力する。
経済的にも政治的にも文化的にも満たされることが社会の成熟であるならば、それは必然的に人間の成熟を停滞させる方向に作用する。


ポケモンがそうした子ども文化の最右翼であると申し上げたのは、まあ、ざっとかようなニュアンスのつもりでした。
日本の子どもが、他の先進国の子どもに比べてもずいぶんと幼い感じがするのは、子ども文化があまりに奥深すぎるからというのが大きい気がします。
日本は昔から伝統的に子どもに甘いらしいし。
でも、ポケモンはもう完全に世界の文化だから、そのうちにアメリカ人もフランス人もみんな幼児化するかもな。