田植え


一昨日は田植えだった。
田舎の伯父母宅の米作を手伝うのは、たいてい年に2回、春の籾蒔きと田植えのときだけであって、これではまるで農業に参加しているとは言えないけれども、これぐらいであれば、農作業も実に楽しい。


農作業のよいところは、実際に体を使って仕事するわけだから、とにかく「働いている」という実感が容易に得られるというのがまずひとつ。
で、しかもその労働は、我々が日々食べる米を生産するという、生活そのものに第一義的に直結している労働であって、働くことの意味が実に明快であるというのが更に重要な点だろう。一言で言うと、「おれはいったい何のためにこんなことやってんだ?」感がゼロである、という、そういう幸福な労働であるということだ。(うちで食べる米は、当然この伯父母が作ったものです)


更に言うと、籾蒔きと田植えは、季節がいいから、単純に外で働くのが気持ちよくて、昼食・夕食時のビールがめちゃくちゃ美味い。
かつてはゴールデンウィークの貴重な1日を潰されるので苦痛に感じたこともあったけれども、近年はむしろ嬉しい。子どもを連れて、人だらけのレジャーに行かされるよりもずっといい。
今年は天気も抜群で、非常によかった。


それにしても、田植機というのは、実に愛すべき機械である。
シンプルで頑丈な構造と、それでいて苗を植える人々の気持ちを知り抜いたかのような、隅々まで気配りの行き届いた設計。初めてその機能を知った人は、みんな感動すると思う。運転するのが実に楽しい。


ただ、田植機の操作にはほとんど体を使わないので、田植機に乗ってばかりいると、後のビールの味が落ちる。
やはり、半分は、田植機が通過した後の田んぼの土をならしたり、苗を運んだり、機械で植えた後の植えこぼしを手で植えて補ったり、といったことをしなくてはいけない。


米作には、非常に繊細で几帳面な作業がたくさんあると思う。
日本人が細かく几帳面なのは、稲作文化と無縁ではないのではないか、などと考えながら田植機に乗った。


しかし、真面目に考えれば考えるほど、日本の農業政策はひどい。
うちの伯父母程度の規模の農家だと、田んぼから得られる収入だけでは、田植機1台買うのに何年かかるかわからない。
強制的な減反には、違反した場合、ひどい罰則が設けられている。その内容は、聞けば聞くほどはらわたが煮えくりかえるようなものである。人のいい田舎のおっさん達をだまくらかしているとしか思えない。
また食糧難がやってきて、都市部のお役人なんかが、戦争のときみたいに食べ物を分けてくれって言って来ても、分けてあげないでおこうと思う。