吉本隆明はなぜ難解なのか


最初は自分の頭が悪いんだと思っていた。
しかし、だんだんこっちもいい歳になってきて、少なくとも人並み程度の読解力はついたつもりだ。もうそろそろ大丈夫なんじゃないかと思って手に取ってみるが、やっぱりいまだにわからない。これはもう自分の頭が悪いだけではない、吉本隆明の方にも責任があるのではないか、と思うようになった。

聞けば、浅田彰も『言語にとって美とは何か』を解読不能と評したそうではないか。浅田彰に読めないモノが、おれに読めるわけがない。


思うに、吉本隆明の著作が難解なのは、幾つもの理由がある。
まず1つは、吉本自身が、非常に不親切な書き方をしているということだ。比較的最近のインタビュー(だったか何だったか)で、本人が、「自分で分かればいいやって思って書いてた」というようなことを言っていた。また、今出てる「SIGHT」のインタビューでは、初期において、書くことは「自己慰安」だったと言っている。つまり、そもそもが、自分で考えて考え抜いたことを、自分の言葉で自分のために書いている、というのが吉本隆明の初期の著作であって、それが出発点になり、それが独自のスタイルを形成している。まさに引きこもりであって、他人に開いていこうという意志がハナからない。それがそもそも、不必要に難解な理由ではないかと思う。


また、2つめには、それと同時に、吉本隆明はそもそも詩人であった。それが大問題。しかも、それが徐々に、詩のような、評論のような、どちらともよく分からないようなものへ発展していく。だから、吉本隆明の評論は、多分に詩的であって、字面をそのまま追っているだけでは、なかなか意味に到達できないことが多い。自分の言葉で、自分のために詩を書いてた人が、そのまま徐々に評論へスライドしてきたわけだから、非常に始末が悪い。語られた言葉から、吉本隆明が描こうとしているイメージを造形する力が要求される。わからない箇所を執拗に何度も何度も読んでみて、たまにやっと理解できたりすると、「そういうことが言いたいのなら、もっとすっきりそう言ってくれよ」という想いにかられることが多い。


さらに、3つめとして、世代の問題があるのではないかと思う。
言葉に対する感覚というのは、世代によって大きな隔たりがあるものだと思う。特に詩的言語というのは、余計そうではないか。今の80代を感動させる詩と、20代を感動させる詩の間には、百万光年の距離があるに違いない。
吉本隆明の文章は、多分に詩的であって、それ故に、独自の美意識によって貫かれている。その美意識というのは、吉本世代の、つまり、昭和ひとケタ世代特有の美意識でもあるのだと思う。それが我々にはそもそも共有できないのかもしれないと感じることがある。最初はそれが、世代のズレではなく、教養のズレだと思っていた。自分が吉本を理解するには、教養がなさすぎるのだ、と。もちろん、それもかなりあるのだろうけれども、それだけではないと思う。言葉に対する感覚、ひいては、ものを書くという行為の在り方に対する意識そのものに、世代的なズレがかなりあるように感じる。

そう言えば、もうずいぶん前だけれども、盆だか正月だかに田舎の親戚の家へ、暇つぶしに吉本隆明の『マスイメージ論』を持って行ったことがあった。茶の間に放りだしてあったその本を、吉本とほぼ同じ世代の伯母が手にとって読み始めた。伯母は、元小学校教師ではあるけれども、決してインテリではない。普段読んでいるのは、宮尾登美子とか、山崎豊子とか、そういう程度だ。それはちょっと無理だろう、と言いたかったけれども黙っていると、なかなかどうして、しばらくずっと食らいついている。あとで聞いてみると、分からないけれども、分からないなりに分かる、みたいな話だった。これは、同世代の強みではないかと思う。言葉遣いそのものだけでなく、言語表現、詩的表現における美意識や、吉本隆明特有の文学的ダンディズムみたいなものが、すんなり腹におさまるのではないかと思うのだ。
て言うか、そもそもぼくには現代詩自体が既によくわかりませんから。現代詩がよくわかる感性じゃないと、吉本隆明は難しいんじゃないんだろうか。


それじゃあお前はなんで吉本隆明が好きなんだ、と聞かれると困るんだけれども(笑)、それは決して無理して言ってるんじゃなくて、吉本以降のどの世代の評論家よりも、なんとなくしっくりくるとしか言いようがない。
読んで幸せな気分になれる評論は、いまのところ、吉本隆明内田樹くらいだと思っている。